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母を否定するということ

私は、身体も心も「女性」である。
「女性」として、「女性」の母から生まれてきた。

あくまで自分の「女性観」として書くが、
女性である以上、他者を受け入れ、壊され、そして作り直し、
新たに創り上げていく、そういう性別なのだと思う。

女性は共感する生き物で、「自己同一性」が揺らぐ、なんて言葉もあるが、
そういうことだって起こり得ると思う。

なんたって、子供をお腹に宿して、育て、産むのだから。
そういうことが出来るはずの「身体」として生まれてきたのだから。
なんらか、器質的な理由で不可能な時はあるかもしれないが、
精神はやはりそういう「受容と創造」という性質を持っているのだと思う。

だからきっと、母親のお腹の中にいた時から、
母親のことを強く強く感じてきたと思うし、母を信じなければ、
そして母も私を信じなければ、生きられなかったのだと思う。

感情とか、思いとか、記憶とか、意図とか、そしてそういう言葉や単語に
ならないような、とにかく物凄い情報量と、ぐしゃぐしゃになった混沌を
お腹の中で感じて、そして産声を上げて生まれたのだと思う。

そうして、母を母以上に良く知る私が、母を助けたいと思うことも、
母に愛されたいと思うことも、母の役に立ちたいと思うことも、
普通で、当たり前のことなのだ。

だけど、それも、もう終わらせていい。

ぐちゃぐちゃに絡まって、胎盤で繋がり、体液を共有し、
一つの身体に共存してきたのは、生まれるまでで。

だからこそ、分離の寂しさを、悲しさを、心もとなさを知っている訳だが、
もう私は自分の足で立てる大人なのである。

元々、「違う生命」で「違う人間」なのである。

「違う生命」「違う人間」が、いつまでも分離できず、
いつまでもお互いがいないと生きていけないなんて、
「あり得ないこと」なのだ。

お互いを尊重し、適切に助け合って
関わっていくことはあるかもしれないが、
「別の人間」なのだから「合わない」ことだってあるし、
「交わらない」、「関わるポイントがない」ことだってある。

ぐしゃっと、ぐちゃっと「一つ」だった分、
一つ一つ分離して、自分を作り直す作業は途方もないが、
そうすることで「自分らしさ」を思い出し、
「自分の足で立てる」のだから。

そして、自分を知り、自分を認め、自分の足で立つことは、
相手を知り、相手を認め、相手が相手の足で立つことを
応援できるようになることだと思う。

なぜなら、人は「自分というフィルター」を通して相手を見ているから。

ぐちゃぐちゃのまま、自分の土台が揺らいだまま、
人を支えるなんて、なかなか難しいことだと思う。

だから私は、「自分」に向かうために、母を否定する。

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