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苦しみも自分のものであるということ

母のこと、父のこと、
特に母に関することを書き出したり、思い出したり、
またそれらを否定して、批判して、「苦しかった」「悲しかった」
「寂しかった」「悔しかった」「腹立たしかった」「不安だった」
「辛かった」「無力感があった」「罪悪感が生まれた」と
ネガティブな気持ちを認めること、そして、
言葉にして吐き出すことはとても困難なことだ。

まず、気持ちを認めることが難しい。
親の「愛情」だと思わされている。
「世話になったのに」と思わされている。

だから、甘んじて受け入れなければならないという「価値観」が
はびこっているし、否定・批判することは「親不孝」だとか、
あたかも子供が「悪い」ように言われてしまう。
「性格が悪い」とか「性根が曲がっている」とか。
受け入れられない「自分」が悪いと。

そんなことは、決してない。

否定しないと、批判しないと、どうにもできないくらい、苦しいのだ。
違和感を殺し、親を受け入れ、自分の心を殺して親に尽くしてきた。
その限界が来て、吐き出すしかなくなっているのだ。

子供は未知で、何も知らない。親をひたすらに信じている。
そして、感情に良いも悪いも、ない。
苦しいことだってある。悲しいことだってある。
寂しいことだってある。悔しいことだってある。
腹立たしいことだってある。不安なことだってある。
辛いことだってある。無力だと感じてしまうこともある。
罪悪感を感じてしまうこともある。

戸惑いながら、精一杯、親を受け入れて尽くしてきたのだ。
その時に産まれる感情に「良い」も「悪い」もあるはずがない。
勝手な、一方的な価値観と尺度で見ているだけ。
「親の都合」で判断しているだけ、なのだ。

そして、「ケア」は「暴力性」をはらんでいるんだという。
読んでいる本にも書いてあった。まさにその通りだと思う。
「ケア」という、一見優しく、「良いこと」のように思えることで
相手を支配し、ぬるりと価値観を滑り込ませるのだ。

親、そして、私。全く別の他人だからこそ、苦しくなるときだってある。
価値観が重なり、ねじ曲がり、そこで何も知らない、何の力もない、
子供の方が、「苦しさ」など、ネガティブな気持ちを抱くことは、
悪いことでも間違いでもなんでもない。

そして、「苦しさ」は本人のものなのだと、わかってきた。
誰かのためではなく、「自分」のためのもの。

「苦しさ」を、ネガティブな気持ちを、
誰かに埋めてもらおうとすることと、
「自分」で引き受けて、「自分」が味方になり、
一緒に終わらせることは全く違う。

誰かに埋めてもらおうとすることで、関わる「誰か」への
「暴力」になり得ることはいくらでもある。

そして、自分も、自分を信じきれず、
ずっと「埋めてくれる誰か」を求めてしまう。

「感情」は、引き受けられる。「私」の「感情」だから。
もっと、「自分」を信じる。
きっと、自分なら、引き受けられる。


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