理想を目指すのは、ゴールの無いマラソンかもしれない
平等に優しくて、いつもニコニコしていて、好きなことをして、人の悪口は言わない。私の理想像。具体的なモデルはいないけど、こうなりたいなと思ってる。
そして縛られている。
今夏から始まった「#家族募集します」というドラマの中で、仲野大賀演じる小山内蒼介のセリフが深く突き刺さった。
「俺が人を信じるのは、理想だよ。みんな良い人だって信じたい。そういう自分でいたいっていう、理想。」
私だ、と思った。後日読んだ感想記事で「多くの視聴者が共感した」とあったので、同じように自分のことだと思った人がたくさんいたみたい。
生きていると、理想どおりにいかないことがたくさんある。そんなとき、理想じゃない自分に出会う。人に不満を抱く自分、好きだと思っていたものに対してやる気を持てない自分、落ち込む自分。
やめときゃいいのに、SNSを開く。ニコニコして前向きな投稿が目に飛び込む。がんばり方を指南する投稿も、見たくないのになぜか流れてくる。
この人みたいな生き方はちょっと…と思うのは、曝け出して生きている人に憧れている側面もあるんじゃないか。そんなスタンスで人生楽しいのかなって思うことで、自分がそのスタンスになれないことを正当化して自己防衛している。狩りをできないウサギが、「他の動物狩るとか野蛮だよね」って遠巻きに言ってるような感じ。
先日のあちこちオードリーで、ゲストの星野源が「らしさは自分が掴んでいる」と言っていた。私は星野源さんの生き方が好きだ。冒頭に書いた理想像は私の目から見た星野源像が織り込まれている。
私が理想像に到達したとき、らしさは自分で掴めているのだろうか。自分の弱点を塗りつぶしたら、らしさは醸し出されるんだろうか。
不満を持つ自分も、気にしすぎる自分も、やる気が出ない自分も、らしさを担う一端だ。「こんな自分だめだ」って思い続けた修正人生だったなあ…って思って死にたくないもんな。
無理矢理軌道修正しようとすると「〇〇しなきゃ」とか「〇〇しちゃいけない」って義務思考になっていく。義務思考に気付いて修正しようとして「〇〇したいって思わなきゃ」ってさらに深みにハマる罠。
「〇〇したい」って思えないときは、今はやりたくないんだなあ…って少し遠くから眺める。ケーキを食べたいって思ってない人に、ケーキ食べたいって思いなさい!って強制するのもおかしな話だ。
四六時中好きでなきゃいけないことはない。一生嫌い、ってならずにいればそれはちゃんと好きだ。