臨界パワーモデル(9)
「臨界パワー(critical power)」とは、運動において無限に保てる理論上の最大パワーです。ランニングはパワーと走速度が比例しているので、「臨界速度(critical speed=CS)」に置き換えられます。CSより下のペースであれば、理論上は永久に走り続けられます。
CSより遅い場合、血中乳酸濃度や酸素摂取量など最初は上昇しつつも一定の値に落ち着き、定常状態のまま走り続けられます。一方、CSを超えると、それらの値は上がり続け、疲労困憊に至って速度を保てなくなります。つまりCSの時の血中乳酸濃度は、「最大乳酸安定状態」(the maximal lactate steady state=MLSS)になっています。
練習強度の分類として、MLSSと乳酸性作業閾値(lactate threshold=LT)を境界に採用し、MLSS以上を「severe(シビア)」、MLSS~LTを「heavy(ヘビー)」、LT以下を「moderate(モデレート)」とする手法が学術界では定番になっています。それぞれ和訳すると、「ひどい」「きつい」「おだやか」とでもなりますが、定着するでようか。カタカナ語そのままというのも手ですよね。
新谷選手の練習を分析
さて今回から、新谷仁美選手がハーフマラソンで日本記録を出すまでの練習を、CSを元に分析してみましょう。練習内容は、新谷選手を指導するTWOLAPS Track Clubによって公開されました。[1][2][3]。この内容を見ていきます。
新谷選手のクリティカルスピードは
分析するには、新谷選手のCSが必要です。
CSを求めるには、フィニッシュタイムが2分~15分で、距離が異なる最低2種類のベスト記録が必要です(出典はこちら)。2分~15分でフィニッシュというと、800m~5,000mあたりとなります。これらの試合は、ゴールの時点で体内の生理学的な状況が同じような限界を迎えているとみなしているので、同じカテゴリーとしているのでしょう。
このカテゴリー以外のランニングは、筋力の限界や筋肉内グリコーゲン量など、血中乳酸濃度や酸素摂取量以外の要素によって限界に達したと言えます。100~400mや、1万m以上のマラソンを含む競走は、何が限界を決めているかはそれぞれ興味深いテーマですね。
新谷選手の公認記録
新谷選手の2019年から2020年の公認記録は7試合あり、800~5,000mは、5,000mのみ3試合ありました。1種類の距離ではCSを計算できませんので、こういう時はどうすればよいでしょうか。
そこで、20分以内という制約を無視して、10,000mの成績を採用することにしました。これまでに引用した研究でも、この2分~20分という制約を無視し、15,000mまでの結果に拡張している例はありました。
ということに甘んじ、ここでも5,000mの記録と10,000mの記録を元に新谷さんのクリティカルスピードを求めることにします。すると対象の記録は下記となります。
2019年9月28日 10,000m 31:12.99秒
2019年7月20日 5,000m 15:20.03秒
ここからクリティカルスピードを求めたところ、下記の通りになりました。
【クリティカルスピード】400m76.2秒あるいは1㎞3分12秒
クリティカルスピードから分析
このペースを元に、練習内容を分析していきます。結果から見ると、このスピードは目標レースペース(400m75.8秒あるいは1㎞3分10秒)とほぼ同じですね。もともとクリティカルスピードは1時間ほど継続できるとされており、ハーフマラソンの記録である1時間強と近くなります。
疾走部の平均がクリティカルスピードとほぼ同じか超えていたのは、10/4(102%)、10/21(104%)、10/24(101%)、10/28(105%)、10/29(101%)の5回でした。一つ一つ見ていきます。
▼10月4日 6×1,600m@102%CS / リカバリー90秒
CS(クリティカルスピード)は1時間ほど維持できるスピードです。この1,600m走はほぼCSの強度で継続時間が5分ほどであり、負担は大きくないかも知れません。リカバリーは90秒なので完全回復でなく、負担は回数を追うほどきつくなるでしょう。
ということで10月の1回分まで終わりました。長くなったので、10月の残りは次回ということで。