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白布温泉、そして西屋の歴史と今

今日は天気予報ストライクの雪の朝でした(むしろ吹雪)。
まるで一瞬初雪の頃に逆戻りしたかのようです。
でも、この時期としては決して珍しい光景ではありません。
(その後は天気が落ち着き、雪はほぼ溶けました…めでたしめでたし。)

麓や南の地域からは、桜に躑躅(つつじ)と春爛漫の話題が聞かれます。
いやぁ羨ましいなぁ…とつい思いますが、季節はちゃんと廻っています。
あとひと月もすれば、美しく山笑う新緑が拝めるでしょう。
小さいつぼみの中で命が育ちつつあるように、私もまた精進の日々。


さて、HPには数年にわたり様々な話題を綴ってきてきましたが、noteはまだ始めたばかりです。
そこで改めて、自己紹介を兼ねて西屋旅館の歴史、そして私こと女将が湯守を兼任するに至った経緯を2回※にわたって書きたいと思います。
(過去HPのエッセコーナーに上げたものから一部加筆修正しています)

※(23.4.15追記)後半の予定だった「湯守」に関するくだりは、読みやすいよう数回に分けてUPすることにしました!

1. 白布温泉について

明治時代末期、西屋に湯治で訪れていた絵師に描いてもらった当時の白布温泉。
背景の山(枠外)に残雪が見えることから、季節は晩春と考えられる。


 本州でも有数の豪雪地帯と言われる山形県米沢市。
白布温泉は、米沢市から南に約20km、福島県との県境に東西広くまたがる
百名山の一つ、西吾妻山の中腹に位置する鄙びた温泉地です。
温泉街のすぐわきを、最上川源流の一つである大樽川が流れています。
標高はおよそ850m~900m。勿論市内より積雪量も多く、年間累計積雪量は10m近くにもなります。温泉街を中心とした半径10kmの人口密度は2023年
3月末の時点で約24人です。
(都心のそれは約6404人ですから、その差は実に1/267人!)

どこまでも深く幽玄な森と水、そして人ならざる命が色濃く周囲を取り巻く自然の畔(ほとり)に、西屋は坐しています。

温泉街から歩いてすぐ近くにある大樽川の「白布大滝」。
落差が約30mあり、豊かな水が流れる美しい瀑布です。

2. 開湯と西屋の歴史(~江戸時代)

 白布温泉の開湯は今から711年前、正和元年(西暦1312年)に遡ります。時は鎌倉時代の末期です。
伝説には、怪我を負った一羽の鷹が岩の間から滾々と湧く温泉に留まり、
身体を癒している姿を発見したのが始まり…と云われています。さらに一説によると、その鷹が羽に白い斑点模様があったことから白斑(しらふ)→
白布(しらぶ)温泉と名が付いたとか。

 西屋は、白布温泉の発見後ほどなくして東屋、中屋と共に創業したと代々伝え聞いています。詳細な記録が残されていないため、初期の詳しい様子はよく分かっていません。ただ、当初は今よりもう少し山奥、源泉のすぐそばで数軒寄り添うようにして宿を営んでいたという伝承は残されています。
 現存する最古の記録は、江戸時代初期に当館の先祖が書き残した書物
「先祖本所記」。江戸幕府開闢からまだ間もなかった当時、かの直江兼続公の発案により、もしもの戦に備え上杉藩が幕府に極秘で鉄砲を製造していた時期がありました。その工房があったのが、人里離れたここ白布温泉です。直江兼続公は、交換条件として苗字を名乗り刀を持つことを認めたうえで、堺州和泉(現在の大阪府)からひそかに呼び寄せた鍛冶職人の世話を西屋に命じました。その時の経緯や様子を克明に記録した書が、この先祖本書記というわけです。


先祖本所記 明暦三年(西暦1657年) 西屋蔵


部分拡大しています。”米澤御城之「直江山城守」”と書かれています。

白布製の鉄砲はその後慶長19年(1614年)に勃発した大坂冬の陣で活躍し、上杉藩は幕府から褒賞を授かったそうです。

 正保元年(1644年)には白布高湯にキリシタンが潜伏しているという噂が立ち、藩の命令を受けた地元の肝煎(今でいう町内会長みたいな役職の人)が幾度も探索に入った、という物騒な出来事もありました。しかし、先祖が直接争乱やもめ事に巻き込まれた記録はないことから、おそらく諸々の秘密は最後まで平和裏に守られたのでしょう。

 このように、歴史的にも秘境としての要素を担ってきた白布温泉ですが、元より山間ののどかな湯治場としてその名を馳せてきました。
 江戸時代に発行された当時の所謂ガイドブックには、山形市の蔵王温泉、福島市の高湯温泉と共に「奥州三高湯」として一緒に紹介されています。
先の先祖本所記にも記載がありますが、かつてはどの宿も夏場だけ宿を
開け、雪深い冬場は麓の集落に降りて年を越す生活を送っていました。電気が通り生活環境が向上してからは、冬季のお休みの間も山に留まり、マタギのような狩猟や雪下ろしをしながら春の訪れを待っていました。
そうして昭和の初めごろまで年間の1/3をお休みとしていたわけですが、
長きにわたり、農閑期の地元の人や旅人たちの疲れを癒してきました。

2. 西屋の歴史(明治~)

明治36年に撮影された白布温泉の全景。一番右側が西屋。 西屋蔵

 大正末期の古い宿帳には、一晩に150人以上の宿泊者があったという記録があります。当時の建物は母屋と本館2棟(平屋)しかありませんでした。しかし、麓から3~4時間かけて訪ねてきたお客様を無碍に断るなどできず、先祖たちは自らの居住部屋も宿泊のお客様にと提供し、代わりに蔵や土間で床を取ったこともあったそうです。

大正7年に撮影された西屋。けっこうな数のお客様が写っています。

 歴史と共に、幾多の災害や戦争も経験しました。

 前述の通り、白布温泉はかつて源泉のそばに宿を構えていました。
しかしその場所は、川の増水や暴風の影響をひどく受けやすかったため、
1700年代(江戸時代中期)頃に今の場所に一斉に引っ越してきました。西屋のお風呂はその時に建造したものです。つまり300年以上も現役のまま。
当時からほとんど姿を変えておらず、西屋の中で唯一当時の姿を留めている場所となっております。

現在の湯滝風呂(男子風呂)。堅牢な御影石を切り出して造られています。

 さらに知る人ぞ知る逸話を。
実は江戸時代頃、白布にもう一軒「北屋」という幻の旅館がありました。
現在営業しているのは東屋、中屋、西屋の3軒ですが、その昔は四軒で温泉を守っていた時期があったというのです。しかしどういう事情だったのか、現在の場所に各宿が移った頃には廃業してしまったそうです。もう何百年も前のことですから、その存在もやがて時と共に完全に忘れ去られてしまうでしょう。
 せめてもの記憶として、ここにその名を残しておきたいと思います。

 明治21年(西暦1888年)7月15日、西吾妻山を挟んだ福島県の磐梯山で
歴史的な大噴火が起きました。山体崩壊の衝撃はすさまじく、ここ白布温泉まで小石や火山灰が飛んできたそうです。多くの人々が綱木街道を越えて
着の身着のまま米沢に避難してきたのを見たと、三代前の主人が語っていたそうです。

昭和56年に撮影した白布温泉全景。

 時代と共に、世の中の暮らしや価値観は大きく形を変えてきました。
戦後の高度経済成長期、日本各地の温泉地では大規模な旅館がいくつも建てられ、どこも観光客で賑わいました。長く湯治場として主に自炊のお客様を受け入れてきた西屋も、規模こそ変えなかったものの、昭和50年にそれまでの大部屋雑魚寝式の湯治宿から現在のプライベート重視の旅籠宿に改装しました。

全館に藤ござを敷き詰めた館内。廊下の天井は囲炉裏の火棚を模したデザインです。

その約10年後には宴会場と離れが加わり、今に至ります。

3. 白布の今、西屋の今

 現在、白布含め麓の集落は御多分に漏れず過疎化の波に晒されています。人口は少しずつ減少しています。街は遠くなり、かつての子供たちの声は
消え、時代に取り残されるように、昔々の静けさに戻りつつあります。

 それでも私達は、長い歴史の中で一度も途絶えることがなかった温泉の
恵みに深く感謝し、年月を経てなお人を包むやさしさを保つこの古い宿と、少しずつ失われようとしている温泉文化を守るため、この地に踏みとどまり細々と暮らし続けています。

 今の代は、先祖本書記を残した清右ヱ門から数えて19代目にあたります。
私は西屋史上唯一湯守を兼任する19代女将として、今日も万感の思いを馳せながら、山と宿とを行き来しています。

(後編に続く)

トレードマーク?の着物&袴で湯守作業中の私。22年夏撮影。

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