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お色気番組への自主規制はいつからあったのか?

お色気番組とは本来、戦後~1980年代半ばごろまで日本が男性優位の社会だったため、そんな男性社会の世の中で「女性(裸体)を笑いモノにする」という女性蔑視的な内容がウケたものから始まりました。女性は男性の補助的な立ち位置で男尊女卑的な傾向もあったので、女性を軽んじるといった内容・演出が成人男性から人気を得ていたわけです。だからこそ主婦層やPTAなどの女性たちからは批判の対象だったのです。つまり、男性優位の社会女(または子供)をバカにする内容成人男性にウケるという構図です。
そんなお色気番組へのコンプライアンスは1960年代から存在しました。

1960年代に放送がスタートした日本初の深夜番組「11PM」

終戦後、銭湯・温泉などで他人と裸を共有する文化があったため、テレビでも裸のシーンや銭湯を舞台にしたドラマが多く放送されていました。しかし「裸を売りモノ」にしたり「裸を笑い者にする」といった作品・番組に関しては昭和の頃から風当たりが強かったのです。

2019年にテレビ東京で放送された特番「そもそもナンデダメなんだっけ?」より

日本のお色気番組が減少したのは「視聴率を稼ぐために女の裸を利用した」・「性をふざけて扱った」からだと見ることが出来る。また1980年代半ばまでの日本は「男は仕事、女は家庭」といった性別役割分担をベースに男性優位の社会(男性社会)であったため、チャンネル権といった言葉もあったほど、テレビでも成人男性向けまたは男児向けの番組が多く制作・放送されていたのです。

●バラエティとドラマではお色気シーンの放送基準が異なる

地上波放送において「テレビで裸を放送してはならない」という規則はありません。あくまでテレビ局それぞれの自主的な判断に任されています。

・ドラマ・映画・ドキュメンタリー番組

2010年にテレビ東京で放送されたテレビドラマ「嬢王3」

物語や話の繋がりとして「濡れ場シーン」・「ヌードシーン」が必要とされる場合や芸術性・露出の必然性・作品性(オリジナリティ)を認めての判断で放送・再放送されることが多い。

・バラエティ・お笑い

2010年に日本テレビで放送された「芸人報道」

お笑いやバラエティで女性の裸またはヌードを放送すると「女性を裸を道具のように扱っている」「性を笑いモノにしている」・「性をふざけて扱っている」といった批判がドラマ等に比べてされやすいという実情があり、裸体の一部にボカシを入れたり、モザイクをかける場合がある。近年では男性の裸も批判される事例も増えている。

しかし、これらの判断は絶対的な基準ではないため、テレビ局や番組、または放送内容・放送時間によってはあえて隠さないでそのまま放送するような例もあります。

では、過去にはどのような批判があって、どのような理由でお色気番組が終了していったのか、歴代お色気番組の「苦情」・「批判」・「自主規制」された例をご紹介しましょう。

●1960年代●
1963年、当時の池田勇人首相が「人づくり」政策を推進したことを受けたもので、東京オリンピックを前にしての東京浄化運動という名目もあり総理府を中心とした悪書追放運動が行われ、同時期に青少年不良防止に名を借りたテレビの低俗番組追放へ、最初の表現の自主規制介入が行われていた。

・ピンクムードショー(フジテレビ)

1960年から1961年まで「11PM」よりも前に放送されていた「日本初のお色気番組」である。大人向けの番組で毎週日曜日の夜10時45分から放映され、内容はコントと日劇ミュージックホールのヌードダンサーの踊りで構成されたものだったが、ヌードダンサーの乳房露出が多く、1960年代当時のテレビでも「低俗」・「卑猥だ」といった批判が殺到したため、4回目の放送からはヌードは自粛された。これをきっかけに地上波放送で「性を扱う番組」に対する批判が高まるきっかけとなった。

・11PM(日本テレビ)

1965年から1990年まで放送されていた深夜のワイドショー
インターネットなどがなかった時代、貴重な情報番組として人気を博した。この番組は24年半も放送された長寿番組であり、知名度も高いため、日本で最初にお色気を扱った深夜番組は「11PM」だと思う人も多い。開始当初から「ワースト番組」「俗悪番組」「エロブンPM」などと呼ばれ、PTAや世間から批判や抗議は日常茶飯事であった。番組リニューアル当初、バニーガールの女性アシスタントが番組を盛り上げたが、青少年に悪影響を及ぼすという理由でPTAからクレームが付いた。大阪イレブンの企画「秘湯の旅」では、レポーター(うさぎちゃん)が全裸で雪の中に飛び込むなどの描写もあり、スタッフが警察から出頭要請を受けることも多かった。しかし、スタッフ達も「11PM」には自信を持っている為、出頭ではなく「喧嘩をしに行く」感覚だったという。

・コント55号の裏番組をぶっとばせ!(日本テレビ)

1969年から1970年まで放送されていたバラエティ番組
野球拳は本来愛媛県松山市に伝わる郷土芸能だが、この番組の野球拳とは、お座敷芸として広まったじゃんけんで負けた者が脱衣する変種であり、この番組の影響で野球拳といえば脱衣野球拳というイメージが定着した。

視聴率は好調だったものの、ゴールデンタイムの時間帯で放送されていたこともあり、視聴者やPTAなどから「子供が野球拳をマネする」などの苦情が相次いだ。また視聴者から寄せられた山のような苦情ハガキを持ち出し、番組内で紹介していたこともあり、番組自体も当時の自主規制により1年間で終了した。

●1970年代●
お色気番組追放キャンペーンが展開される

1975年、当時日本共産党に所属していた政治家の宮本顕治が日本テレビの「11PM」・テレビ東京の「独占!男の時間」に代表される女性の裸体を売りにした番組が多いという現状に憤り「今の商業テレビ界には女性を軽視した番組、ポルノ番組が満ち溢れている」と批判した。この発言をきっかけにポルノ番組追放キャンペーンが展開された。ただし、にっかつロマンポルノに関しては批判を行わなかった。テレビ番組は深夜帯とはいえ18歳未満の青少年が視聴する可能性が高いが、日活ロマンポルノは「18歳未満鑑賞禁止のR指定(年齢制限)がされている映画だから」というのが理由である。

・23時ショー(テレビ朝日)

1971年から1979年まで放送されていた深夜のバラエティ番組
深夜のアダルト向け娯楽ショー」を標榜し、裏番組だった「11PM」としのぎを削ったが、低俗番組との批判を受けた。過激な色気を売り物とする生放送のスタジオ企画を中心とし、政治問題などの硬派な話題も扱っていたが、ヌード映像などを放送していたため、視聴者からの抗議が殺到していた。1973年に第1次オイルショックの影響で民放キー局が深夜放送の自粛を決めたため、一旦番組は打ち切られる。その後、数年間別の番組を放映したのち、1977年に再開して1979年まで放送された。この番組の路線は「トゥナイト」に引き継がれている。

・独占!男の時間(テレビ東京)

1975年から1977年まで放送されていた深夜番組
ストリップが放送されるといった内容も多く、回を追うごとに段々と過激になりすぎたため、宮本顕治(政治家、日本共産党所属)のポルノ番組追放運動のやり玉に上げられたことや、この種の番組の追放を決めた局の判断(自主規制)により番組は打ち切りとなった。

・テレビ3面記事 ウィークエンダー(日本テレビ)

1975年から1984年まで放送されていたワイドショー
本来はお色気番組ではないが、性犯罪や情欲絡みの殺人事件、少女売春(当時は売春なる言葉は存在しなかったが)などを扱うことが多く、かつ出演者が容疑者を罵ったり、事件の再現ドラマをエロチック(レイプシーン・ベッドシーンなど裸の多さが売り物エログロ低俗化)に表現されたことなどから、事件当事者などから非難が寄せられ報道倫理上問題となったり、警察の取材協力を断られた事もあった。そして当然の事ながら、日本PTA全国協議会等からも“超ワースト番組(子供たちに見せたくない低俗番組)”の烙印を毎年のように押されていた。

・独占!おとなの時間(テレビ東京)

1977年から1981年まで放送されていた情報番組
前番組「独占!男の時間」が放送倫理上の限界を追求しすぎて打ち切りになったことの反省に立ち、本番組はあくまでも情報番組という路線を軸に、お色気要素を盛り込んだ形で放送された。放送開始から4年半後、番組は製作局の社名が「テレビ東京」へと変わるのと同時に終了。この頃から地上波のテレビ番組では、芸術性のある作品であっても刺激のあるエロティックな映像が登場する機会が急速に少なくなっていった。

●1980年代●
1985年2月8日の衆議院予算委員会で深夜のお色気番組が取り上げられ、当時、総理大臣を務めていた中曽根首相は中野寛成議員(民社)の質問に答える形で「郵政省が監督権を持っている。民放の諸君とも話しあって、いやが上にも自粛してもらいたい。郵政省もチェックして、警告などしかるべき措置をとるべきだ」と発言。

これを受けて郵政省は全国の民放126社の社長と番組審議会委員長宛に、佐藤 恵郵政大臣名で深夜番組の自粛を求める異例の「通達」を送付し、「健全な青少年育成の観点から性、暴力等の取り扱いの行き過ぎを憂うる声を少なからず耳にするところであり」「このような批判を受けていることは、放送番組基準を遵守し、放送番組の充実向上に努められることを特に強く要望」各局に対して改善の方策を文書で求めた。この影響により、放送中だった当時の深夜番組がそれぞれ軌道修正を試みたが、結局ほとんどの番組は終了する結果となった。

・トゥナイト(テレビ朝日)

1980年から1994年まで放送されていた深夜の情報番組
日本テレビの「11PM」のライバル番組としてスタートし、山本晋也監督の風俗レポートは「11PM」の視聴率を抜くほど人気を博した。山本監督は“ほとんどビョーキ”という流行語も生んだ。頑なに風俗情報を扱っていたこともあって放送当時から毎回、苦情も多く寄せられていた。

・スーパージョッキー(日本テレビ)

「THEガンバルマン」や「熱湯コマーシャル」などのコーナーが問題視され、教育員会からも批判が多かった。番組最末期になると問題視され続けていた「熱湯コマーシャル」の過激化と長期間の放送によるマンネリ化がますます進行し、視聴率が下降気味になった為、急遽番組のイメージチェンジを迫られた。しかし付け焼き刃的なテコ入れで無理にイメージを変えようとした上、これまでの低俗・お色気路線のイメージが依然として残っていた事から、さらなるマイナスイメージとなった。この結果、同じ時間帯に放送されている裏番組に流れていった視聴者を取り戻せなかったばかりでなく、さらに視聴率を減少させた。そして最終的にはこれが原因となって番組の放送終了に繋がった。

・オールナイトフジ(フジテレビ)

1983年から1991年まで放送されていた深夜のバラエティ番組
放送開始当初は、アダルトビデオ紹介コーナーや性風俗店探訪といった性風俗を扱ったコーナーがあったが、放送開始から1年半たった1984年の10月改編で他の民放キー局が、より過激な切り口から性風俗情報などを扱った生番組を一斉にスタートさせたため、これらの裏番組との差別化もあり以後これらの扱いはソフトなものとなる。また当時の中曽根政権が深夜番組自粛を通告する事態となった結果、放送内容を変更せざるを得なくなった。

・ミッドナイトin六本木(テレビ朝日)

1984年から1985年まで放送されていた深夜のお色気番組
アダルトコーナーが名物となっており、本番組でも名物コーナーは「今週のピンク・ニュース」というアダルトビデオやドクター荒井の性感マッサージなどを取り上げたものだったが監督官庁である郵政省からクレームがつき、当時の国会(衆議院予算委員会)でも槍玉に上がったため、番組は打ち切られた。

・TV海賊チャンネル(日本テレビ)

1984年から1986年まで放送されていたフジテレビの「オールナイトフジ」に対抗するべく作られたお色気番組
女性の裸体の一部分がランダムに放送され、男性を自慰行為に走らせるティッシュタイムや、ラブホテルでHをしながらクイズに答えるラブホテルクイズ等が郵政省からクレームが付いて自粛されてしまった。

●1990年代●
1980年代後半からの中曽根政権の影響により、民放各局は「脱・お色気」として深夜のお色気番組の放送を自粛する状況が続いた。お色気に代わり、視聴率度外視・マニア向け、低予算、関係者・出演者が若手メインといったドラマ・バラエティ・情報番組が放送される様になった。

・トゥナイト2(テレビ朝日)

1994年から2002年まで放送されていた前身番組「トゥナイト」を引き継いだ情報番組
深夜番組の「脱・お色気」の風潮の中、お色気系の企画にも積極的に取り組んでいた。しかし、青少年委員会には「青少年も遅くまで起きている。与える影響を考えなければならない」・「アダルトの話題ばかりで描写も過激すぎる」といった意見が殺到した。以降、番組では過度な性表現を避ける・話題を広範囲に探す・社会常識に則った内容にするなど徐々に改善されていく結果となった。

・EXテレビ(日本テレビ)

1990年から1994年まで放送されていたワイドショー
「11PM」のカラーを払拭した内容で国外情勢やトレンドなどの情報番組色が強い企画と実験的要素の強いバラエティ企画を主軸としており、本来はお色気番組ではないが、火曜日の実験企画「低俗の限界」が話題となった。初回の放送時に300本を超える苦情電話が殺到する事態となり、「こんなものをテレビで放送するな!」といった批判も多く寄せられ、1990年代の放送基準にも違反していたため、合計2回の放送に留まった。この企画が有名になったことから¨エロ番組¨と認知している人も少なからずいる。

・ギルガメッシュNIGHT(テレビ東京)

1985年に「夜はエキサイティング」を終了させて以降、中曽根政権による深夜番組の自主規制強化により、約6年間ほど深夜のお色気番組は休止状態に陥っていたが、この路線を復活させたのがギルガメである。1990年代は「男性優位の社会」から「女性優位の社会」となったため、制作陣は¨女性向けのエッチな番組¨として放送をスタートさせ、次第に男性視聴者や中高生などにも好評を得て人気番組となった。この番組のヒットにより、民放各局はギルガメに対抗して「深夜のエロ番組」を再び復活させるようになる。
一方で番組には苦情もたくさん寄せられており、それに対応する形で一時期「愛&バカルディの苦情受け付けます」というコーナーがあり、番組に寄せられた苦情のハガキを紹介していた。1998年には、視聴者からテレビ東京の番組審議会宛に「内容がお色気番組として笑って見過ごせる範囲を超えているのでは」という意見が相次いだ。批判が多かっただけでなく、番組のマンネリ化や視聴率低下なども審議された結果、番組は終了した。
主に1966年生まれ~1971年生まれ前後の人たち(バブル世代~氷河期世代(団塊ジュニア))がこの番組の世代に当たる。

・殿様のフェロモン(フジテレビ)

1993年から1994年まで放送された深夜番組
テレビ東京の「ギルガメッシュNIGHT」に対抗して制作された番組であり、内容やセットなどは同じフジテレビで放送されていた「オールナイトフジ」を踏襲していた。中でもAV女優が多数参加した「快感!ハケ水車が回っているのは誰だ?クイズ」は過激かつ卑猥なコーナーとして当時の話題となり、視聴者からも「下品・低俗・公序良俗に反する」といった苦情が殺到し、番組は5ヶ月間で打ち切りとなった。

・Mars TV(フジテレビ)

1994年から1995年まで放送されていた深夜番組で当時、人気のあった同局の子供向け番組「ウゴウゴルーガ」の大人版として製作された。
お笑い芸人たちによるコントとAV女優たちによるストリップを主軸としていた深夜番組で、コント→ストリップ→コント→ストリップというように、ストリップ見たさに最後まで番組を見てしまうように構成されていた。ストリップコーナーは、最後のほうになるとかなり卑猥な体勢で局部を撮影したり、女性器を画面一杯のアップで映したりするなど過激な内容が問題視され、当時の「全裸は取り扱ってはいけない(陰部露出)」といった放送基準に違反していたため、番組は5ヶ月で打ち切りとなった。

・ロバの耳そうじ(日本テレビ)

1994年から1996年まで放送されていたお色気番組
放送開始当初から低俗番組のレッテルを貼られ、日本PTA全国協議会からは常に「超ワースト番組」と槍玉に挙げられていた。また、当時日本テレビの社長だった氏家齊一郎が日本民間放送連盟の会長も兼務していたため、番組は1年5ヶ月ほどで終了。これをもって日本テレビ系列では明確なエロを売りにした深夜番組が無くなり、それ以後に放送の深夜番組では「エロネタ」程度に留まっている。

・A女E女(フジテレビ)

1997年から1998年まで放送されたお色気番組
同時間帯にテレビ東京で放送されていた「ギルガメッシュないと」に対抗すべくスタートした深夜番組で「日本一のお下劣バラエティー」を謳っていた。催眠術をかけられたAV女優や売れないモデルたちに太鼓や木魚などの音を聞かせて悶える様子を巧みなカメラワークで放送していた。回によっては女性の陰毛が見えたり、女性が雰囲気に流されてオナニーをし始めたりと、公共の電波に流すには過激すぎる内容が含まれており、俗悪番組とのレッテルを貼られる結果を招いた。放送開始当初から「あまりにも低俗すぎる」との批判を浴びたため、5ヶ月で終了した。

・おネプ!(テレビ朝日)

1999年から2001年まで放送されていた深夜のバラエティ番組
ネプチューンの原田泰造が扮する「原田大明神」が、番組に応募してきた団体の祈願を成就させるべく、彼らに巴投げを仕掛けていた「祈願成就!出張ネプ投げ」のコーナーが人気を博した。このコーナーは主に若い女性を対象としていたため、原田が投げる際に高確率で彼女たちの肌や下着が見えることも多く、放送と青少年に関する委員会(現・放送倫理・番組向上機構)からも「カメラアングルがのぞきを肯定しているかのようだ」との指摘を受け、コーナー打ち切りを余儀なくされた。

1990年代は「ギルガメッシュNIGHT」に人気が集中していたが(独占状態)、他のお色気番組はビデオデッキやレンタルビデオ全盛時代だったこともあり、番組人気を維持できずほとんど短命で終了した。

●2000年代●
2000年代以降はインターネットメディアの普及や視聴者にも個人主義が進みテレビ離れなどによって次第に「テレビでのお色気番組」の影響力・需要は低下していったため、動画配信サービスやインターネットテレビ等に移行するようにもなったが、サンテレビのお色気番組は放送が継続していた。

・今夜もハッスル(サンテレビ)

2008年から2009年まで放送されていたお色気番組
2000年代としては珍しく女性のヌードやアダルトビデオの紹介など過激な内容が放送されていた。2009年6月、青少年委員会から「あまりにも低俗すぎる」という厳しい意見が相次いだため、放送倫理・番組向上機構(BPO)が質問状を送った。指摘を受けたサンテレビ側は「外部制作番組とはいえ、社内のチェック体制が甘かったこと、また、番組に関わるスタッフの放送基準に対する意識不足が、結果的に番組の表現・演出をエスカレートさせ、視聴者の苦情・批判を受けることとなってしまいました。」と行き過ぎが多いと判断したため、番組の打ち切りが決定した。

このように昭和の頃から地上波放送のコンプライアンスは存在し、決して過激な放送・卑猥な内容が安易に許されていたわけではありません。当時の放送基準に違反した番組、やり過ぎてしまった番組は必ず規制され、徐々に姿を消していったのです。

ちなみに現在でもお色気番組の制作・放送は可能であり、直接的表現を使わない形でAV女優の知名度上昇や商品販促の導入口とするなど、時代に合わせた表現を用いて継続されている。

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