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「ある」と「ない」について──内藤礼『生まれておいで 生きておいで』

内藤礼は、視覚を信じているのだろうか? 不信や疑念を抱いているとは思えないが、少なくとも視覚に頼ろうとはしていない。視覚に依存することを極力回避しているようにも感じる。

東京国立博物館における展覧会は9月23日で終了し、同名の展覧会が銀座エルメスで翌1月13日まで続いている。トーハクで鑑賞したのは厳しい残暑の折。少し間が空いてしまったが、ようやく冬の足音が聞こえるようになった某日、全面ガラスブロック張りのラグジュアリーなエルメスのビルにも足を運ぶことができた。

2つの展覧会は一連のものとして企画されたという。トーハク開催時は同館が所蔵する古代の土製品など考古学上の発掘品が多数使用されていた。さすがにエルメスでそれは難しかったようだが、その代わりに、女性モデルを被写体にしたファッション誌のページを破いてくしゃくしゃにした作品が複数登場していたのは、内藤にしては珍しくキャッチーかもしれない。ただ、展示のコンセプトや方向性はほぼ同一と言っていいだろう。

そのコンセプトをつまびらかにしようという気にはならない。タイトルの『生まれておいで 生きておいで』からぼんやりイメージを浮遊させるだけでいい。その方が内藤の思いにより近づける気がする。さらに言うなら、内藤の作品を通じて見えてくるものこそが大切なのではないか、という気持ちになる。

彼女が「いのち」のありように深い関心と共感を抱いているのは確かだろう。その意味でスケールはとてつもなく大きい。しかし、取り揃えられたブツの多くは微細なサイズである。例えば、繊細な模様が描かれた布は8cm四方程度で名刺ケースに入りそうなくらい。吊るされた毛糸のボンボンは3cmに満たないし、鈴玉となると1cm強で、うっかり見逃しそうになる。エルメスの会場の隅で、日比谷公園で採取したという10cm程度の小枝がポツンと立てかけられているのを不意に発見したときは、「えっ!」と声が漏れそうになった。

屑みたいであっても、なぜか心が動かされる。ミニチュアのマテリアルが織りなす世界がかくも豊饒なのはなぜだろう。あらゆる場所やモノに神が存在すると考えるアニミズムもほの見える。

やはりエルメスの会場では、直径1cm程度の小さい円形の鏡を4点セットで展示したもののうち、どうしても1点が見つけられなかった。配布された作品リストとマップを子細にチェックしても見当たらないのだ。少し粘ったが、諦めた。しかし、そういう見逃しを積極的に許容するものがこの展覧会にはある。ここで視覚は必要条件ではない。人間が感知できなくても、または関与しなくても、何かがそこにあること自体が尊いのだ。

絵画シリーズの《color beginning》のシミのようなかすかな色彩は、ときに自然の風景を喚起しないわけではないが、画家の主張や感情が投影されているというよりも、ただ実在していることに意識を向かわせる。いや、あまりに空白が多く、むしろ絵画の「不在」が迫ってくると言ったほうが適切だろう。やはりここでも視覚は頼りにならず、「ある」と「ない」の二項対立を超えた存在論的な問いかけがある。

とはいえ、内藤はただコンセプターの地位に安住しているわけではない。物理的なマテリアルをピックアップしたり組み合わせたりする丁寧な「手仕事」の気配に、創作者としての矜持が滲み出る。一方で、作品自体は媒体(メディア)であり、鑑賞者はそこを通して、広大無辺な「いのち」の世界とつながる。内藤は、自身の個展において、あえて主役の座を降りることで、その役割を果たそうとしているのだ。

会場では一切の動画、写真の撮影が不可だった。今回のインスタレーションは、イノセンスを突き詰めるマナーが徹底していて、インスタグラム的な「映え」とは真逆のベクトルを有している。スマートフォンでパシャリとするだけでは展示空間の玄妙さは捉えられないだろう。

そういえば、トーハクの会場では、展示ガラスの下方で、粒のように小さい一匹の虫がよろよろとうごめいていた。アリぐらいの大きさだったが、おそらくは……Gだと思われる。でも、それさえも作品の一部のように感じされて、思わず作品リストで確認したほどだ。そんな微笑ましい偶然を内包する内藤の展示は、確かにインスタ映えのような表層的な視覚効果とは無縁だが、視覚を超えて「いのち」のささやかな息吹に触れようとする意志に満ちており、圧倒的に美しかった。

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