面会交流の意義:父性原理と母性原理が子の人格形成に必要(静岡地裁浜松支部平成11年12月21日判決 判例時報1713号92頁)
静岡地裁浜松支部平成11年12月21日判決 判例時報1713号92頁
「一1 ところで、家族の社会生活における意義を見るに、テンニースという学者は、社会をゲマインシャフト(共同社会)とゲゼルシャフト(利益社会)とに分けている。ゲゼルシャフトとは会社とか学校とか組合のように、人がある目的のために結び合う社会のことで、そこでは人々はその目的のために結び付くのであって、一面的である。ゲマインシャフトとは村落とか、家庭のように人々がそれ自体で結び付き、無目的に結合している社会で 、そこでは全人格的に人々は結び付く。その典型は家庭である、というのである。
家庭は、もともといろいろな機能を果たしてきた。生殖は勿論、生産も教育も娯楽も全て人々は家庭に求め、そうすることで落ち着きを感じとってきた。安楽の地が家庭であり、人々は家庭に安住しているだけで充分生活していけた。
しかし、資本主義社会が発達して人々の分業が進み、多くの人が都会に居を構えるようになった現在、そのような機能はほとんどがゲゼルシャフトに奪われ、家庭は生殖と睡眠とかいった数少ない機能しか果たしていない。しかも、ゲゼルシャフトの要求は次第次第に家庭というゲマインシャフトに対して強く迫り、人々は休息の場さえ奪われ兼ねない。家庭は構造的にも夫婦と未成年の子で構成されるようになり、いわゆる核家族化される傾向にあり、ときとすればゲゼルシャフトの要求に抗し切れない場面すらある。
しかし、家庭の果たす役割はやはり重要であると言わざるを得ない。ゲゼルシャフトの場でいろんな働きをして、精神的にも肉体的にも疲れ切った人々はやはりその休養を家庭に求めるのであり、憩いの場、慰めの場、思いやりの場、人間らしさを取り戻す場は家庭をおいて他にはない。人間は、所詮個々としては一人の人間だけではとても生きていけない。その 人生において困窮した時、疲れ切った時、難関に直面した時、やはり身近に話し合いや慰めの場を持ちたいと思うのであり、そうした最後の砦が家庭であるといってよい。
2 右家族の中で産まれた子の観点から検討するに、まず、右家族の中で生命を与えられた子にとってはそれは運命であるといわざるを得ない。
家庭は未成熟の子を独立した一個の人格者として、いわば社会人として送り出すまでの養育の場でもある。人が生まれ落ちて与えられる環境は先ず真っ先に家庭であり、子供にとってそこに選択の余地はないのである。
しかるに、長ずるに及んで一個独立社会人として世に出るまで、長い期間を要し、その間家庭で父母の監護教育の下におかれることを考えるとき、家庭の持つ意義は大きい。
人間は本能を忘れた動物であるという説がある。したがって、人間には本能に代わる行動パターンが必要となり、自我を養成してその自己規定に基づいて行動する。そのため、すなわち、社会的に独立し、主体性を持った人格を持つには人間は約二〇年もの長期間を要するというのである。そして、幼児のときに母親ないし父親の肌で触れ合う感触が、人間として の優しさ、思いやりなど、後々の人格形成に大いに必要な、かつ不可欠なものなのである。しかも、それは幼児期という時期を失してはもはや代わるべき体験はできないものである。すなわち、右の体験は不可遡及的なものであり、このことを担う役割は、やはり生みの母親を先ずおいて他には求められない。
つぎに、外部からの社会的規範など、様々な社会生活をしていくうえで準拠すべきルールや生き方の方法などを家庭に持ち込み、これを内面化する役割を主として父親は担うものと思われる。
これらの作用は、夫婦の協力によってもたらされるのであり、従って夫婦間の相互理解が必要であり、その仲睦まじさが、子供にとっても多大な影響を与える。
二 右のような役割を民法は親権と称して第八一八条ないし第八三七条にこれに関する規定を設け、原則として親権は父母が共同してこれを行うと定め、その具体的内容を財産管理権の他、子供の躾や教育をはじめ子の回りの世話など子の全生活に亘り監護教育をするというものであり、これは親の権利であると同時に、まず子の福祉を念頭において行使すべき ところから義務ともいえるのである(民法第八一八条第一項ないし第三項)。
ことに、前記一で考察したように、典型的なゲマインシャフトとして、また、社会の基底的集団として、家族は全人格的に付き合うものであって、人はこうした家庭でおよそ成人に至るまでの長期間育成されるものであり、成人して出ていく社会にも社会的法則や倫理を遵守するとかの父性的原理に基くものや思いやりなど他人と共感して生活するなど母性的原理 に基くものの双方を必要とし、未成熟の子に対する父親としての役割、母親としての役割を考慮すれば、つぎの時代を担う人間を育成する場として親権は親の権利性をそう強調して論ずべきものではなく、また、子の福祉の観点からその義務性をそう軽々しく論ずべきものではなく、父と母の共同して親権を行うことが最も望ましいのはいうまでもないところである 。
ところで、両親の離婚という現象は場合によっては親たる夫婦間にしてみれば避けられない現象ではあるが、右離婚という現象はあっても、その子にとってはその後は欠損家庭に生きるという不幸な出来事というべき一面があるとともに、その子にとってみれば、父と子、母と子という親子の関係それ自体は生涯離れることはできない運命的なものである。
しかしながら、親権の具体的内容たる監護教育する権利は、どちらかの親権者の手に委ねざるを得ないことになる(民法第八一九条第一項ないし第六項)。すなわち、他方の親権はその行使が停止されることになる。
かくて、子との面接交渉権は、親子という身分関係から当然に発生する自然権である親権に基き、これが停止された場合に、監護に関連する権利として構成されるものといえるのであって、親としての情愛を基礎とし、子の福祉のために認められるべきものである。」
「以上のこと、特に右(二)(2)のことは、被告(母親)とその両親との結びつきが強固であることを意味し、被告が充分に親離れしないままに未熟な人格として成長したことを示すのであって、別居後の被告の両親の態度等にもそれが見受けら れるのである(原告(父親)が被告の実家を訪れた際、被告の母に鍵をかけられたことなど前記一1(一六)や、被告の父から原告が、 「わしは娘がいなくなり寂しくてしょうがない。」と嘆いたり、「馬鹿野郎、お前なんかに挨拶なんかない。」とか、「帰れ ばいいんだろう、じゃあ帰れ。」と怒鳴られたりしていることにも窺われるのである)。
(2)さらに、別居後の調停等の席上、原告から一郎を遠ざけようとする被告の態度(前記一2(二)、(三)、(四))は、 社会人として成長した暁には人格として備わっていなくてはならない二つの特性、すなわち、人間の母性原理の他、父性原理 を一郎自身が学習すべき絶好の機会を被告自らが摘み取っている態度というべく、決して讃められた態度ではない。子供は産まれたときから二親とは別個独立の人格を有し、その者固有の精神的世界を有し、固有の人生を歩むというべく、 決して、母親たる被告の所有物ではないのである。
(四)以上の他、被告の供述はいずれもにわかに措信し難いものがあるといわなければならない。
2 以上のとおり、被告が原告の居を離れて別居するに至ったのは、本件調停の経過や調停離婚成立の過程を併せ考慮すれば、 決して原告が自己本位でわがままであるからというのではなく、むしろ、被告の親離れしない幼稚な人格が、家庭というもの の本質を弁えず、子の監護養育にも深く考えることなく、自己のわがままでしたことであって、そのわがままな態度を原告に 責任転嫁しているものという他はなく、右被告の別居に至る経過が今回の面接交渉拒否の遠因となるとする被告の主張は到底 採るを得ない。
四 なお、学資保険の未払保険料金30万円の支払は、必ず被告の預金口座に振り込むことが条件であったと、被告は主張するが、これとても《証拠略》によってもこれを認めるに足りず、そもそも被告が満期返戻金を受領する際に贈与税または一時 所得による所得税が課税されるとしても、せいぜい10パーセント内外の経済的負担を被告が一時的に負うにすぎないものというべく、到底父性原理の習得という重大な人間的価値と比較すれば、被告の右主張は採るに足りない言いがかりという他はない。
第四、以上のとおりであるとすれば、被告が原告に対して一郎との面接交渉を拒否したことは、親権が停止されているとはいえ、原告の親としての愛情に基く自然の権利を、子たる一郎の福祉に反する特段の事情もないのに、ことさらに妨害したとい うことかできるのであって、前項で検討した諸事情を考慮すれば、その妨害に至る経緯、期間、被告の態度などからして、原告 の精神的苦痛を慰謝するには金500万円が相当である。」