【ソフトボールに育てられた13年】 44 教育をめぐる日本一周かおるの旅 2022年11月21日 10:24 かれこれ13年間も続けているソフトボール。大学での4年間を終え,今日引退しました。これを機に,ソフトボールに育てらてた自分を振り返りたいなぁと思ってこれを書いています。というわけで,自分の記録のための,自分のためだけの記事です。なので全然読まなくて大丈夫です。小学生時代小学校4年生で始めたソフトボール。6mしか投げられないくらい苦手だったソフトボールをなんで始めたんだろうか。3年間で「一勝だけ」という弱小チーム。これまで人前に出ることのなかった私が10番をつけて初めて下級生の面倒をみる立場になって,頼られる立場になった。前からくるボールがバットに当たることなんてそうそう無くてバットにボールが当たるだけで大喜びしてた。コーチも親たちも。そんなくらいの本当に弱くて何もできない小学生時代だった。最初は3人だったチームも人が増えて,試合ができるようになって。温かいコーチや親御さんに見守られての小学生時代。ALL習志野の選抜チーム。小学6年生。他チームの上手な子達の中で弱小の自分がプレーすることが怖くて泣いてばかり。ちょっと怖いコーチにすこし言われただけで大泣きするくらい弱虫だった。そんなこんなで,ソフトやってるのかやってないのかわからないほどの小学生時代終了。側から見て,一見意味のないようなソフトの時間を,毎週毎週見守ってお金をかけて道具を用意してくれた両親には,今となって本当に感謝しかない。だって,意味のあると思える時間を子どもに過ごさせようと口を挟んでしまうのが普通だと思うし。ただ応援して見守ってくれて本当にありがたかった。中学生大きなカバンにバットを持って,中学生に。大して上手くないのに,経験者というだけで一年生の頃から先輩たちに混じって試合に出る日々。嬉しい反面プレッシャーもあり,先輩たちの中で必死に頑張った。中一の時,先生に勧められて参加した県選抜のセレクション。2回のセレクションを突破して,あれよあれよと30人に選ばれた。。名前をデカデカと書いたゼッケンをつけて,他チームのレベルの高い子たちとのソフト。自信の無い私に打って変わって,自分のプレーに自信があって,ずっと上手だと言われてきたような子達のたくさんいる場所に戸惑い,怖くて怖くて本当にいくのがずっと嫌だった。泣きながら選抜の練習に行くような日々が続いた。絶対に2年生では受けない。と決めた。少なくとも,繊細すぎて傷つきすぎてしまう私にとっては,息を殺すように,目立たないようにとにかく時間が過ぎるのを必死に耐える時間だった。とはいえ。努力を重ねてどんどん上手になっていった。たくさん指導してくれた監督や,お互いにストイックに高め合えた仲間がいてくれた。市内でビリだったところから,県で3位にまでのしあがった。自分達の努力が本気で身を結ぶことがわかった。最高の仲間達とソフトができてよかった。毎日家に帰って300の素振り。毎日の部活ノート。ここにかける時間が本当に大好きだった。そして2年生の県選抜。絶対に行かないと決めていたのに。自分にとっては怖くて嫌いな場所だったのに。やっぱり自分の力を試したいとの思いでセレクションを受けることにした。4回の選抜をすり抜けて,17人に残った。自分でもびっくりしたし,やっぱりそこにきてまた怖かった。習志野市からたったひとりの自分。練習を重ねて,全国大会へ。上手すぎる仲間たちと,決して上手じゃ無いのに努力だけのわたし。みんなとも最後までなかなか仲良くなれなかった。下手くそでみんなみたいに面白いことも言えなくて,必要ない存在にしか思えなくてみんなに邪魔者扱いされているように勝手に感じてた。身を隠すように,自分に自信がない私をコーチや先生方はすごく優しく応援してくれた。ひたむきに努力だけはやめない私をチームの4番において「君が打つとチームの流れが絶対に変わる」と言ってくれた。バッティングでチームに貢献したい,と素振りをやめなかった。自信がどうとかじゃなくて,頑張りたい,打ちたい,みんなの力になりたい思いが強くなった。段々と,胸を張って打席に立てるようになった。みんなが応援してくれて,こんな私を認めてくれて嬉しかった。初めての全国大会。全国のレベルは桁違いで,全く歯が立たなかった。みんなの力になれなかったことが悔しくて,ベンチでひとりこっそり泣いた。県選抜も終了。打席では手も足も出なかった。でもなんだか強くなった気がした。上の世界を知れてよかったと思った。そして,中3の市選抜ではキャプテンを務めた。仕事を任されることで少しずつ自信がつき,チームをまとめようと頑張った。そんなこんなで中学生時代もやりきった。弱いチームが強くなっていったり,県選抜の世界を知ることができたり,キャプテンを任せてもらえたり。関東全体のセレクションにも参加し,上には上がいることに感動した。びびるのではなく私もそうなりたいと思えるようになっていた。高校生もっと上の世界を見たい。と日本一を本気で取りに行く厳しい高校に入学。長かった髪もバッサリきった。何もかも不安すぎて不安だった。でも,ソフトボール以上に心や人間性を育てるチームの方針に感動した。ここで頑張ろうと思った。休みが本当に一日もない3年間の始まり。全国優勝した先輩たちと一緒にただただ食らいつく日々。何もわからないまま一生懸命に毎日を過ごした1年生。Bチームの先輩たちにたくさん教えてもらいながら少しずつ成長した。3年生は本当に偉大で,優しくて,インターハイでの優勝を間近にした一年生。2年生になり,チームの戦力として頑張らないといけない代になったものの私たちの代は技術がなくて本当に下手くそで。先輩たちの助けには全然なれなかった。下手くそだから,と何も言えなかった自分達が大会の前に「こんな先輩たちにはついていけない」と言ってしまったこともあった。40人を超えるチームで試合に出るのは10人。チームが一つになるのは本当に難しかった。結果は全国3位。十分過ぎるほどの結果とそこに悔しがって泣き止まない先輩たち。本気で日本一を目指していたからこその悔し涙だった。そして新チーム。自分たちの代。技術がない。自信もないわたしたちがつくるチーム。キャプテンはくび。一個下の子がキャプテンになり,それでも自分達のチームが作りたくて毎日毎日泣きながらチームのことを本気で考えた。技術のある自信のある後輩と何もない3年。試合に出てるのはたったの3人だけ。怒られて怒られて怒られて。泣いて泣いて泣いて。悩んで悩んで悩んで。グラウンド以外では死んでいるかのような日々だった。最後の大会に向けて,試合に出る3年も出ない3年も自分の役割を見つけて後輩に何か少しでも残せるものを,と試行錯誤した。それでも先生からの言葉は「お前らは早く引退しろ。」だけだった。後輩たちからの冷たい視線と先生の呆れた言葉と。とにかく悔しくて苦しくてどうしようもなかった。最悪な代だったからこそ,それをひっくり返したら最高の感動を起こせる。何を言われても,試合に全く出れなくても腐らなかったこと。これだけが私たちの代の思いを表してたと思う。県を勝ちきり,8月三重でのインターハイの出場権を得た。最後の1ヶ月。自分達の心はズタボロだったと思う。誰からも必要とされない状況で,誰もが自分達を邪魔だと思う環境で覆そうにも覆すことができなかった。インターハイ本番。ベンチにはたくさんの3年生。みんなの力になれるバッティングに命をかけてきた。1点差で負ける状況で2アウト3塁代打。ピッチャーライナーを取られてみんなの力にはなれなかった。結果は負け。みんなが泣き崩れる中で涙が出なかった。ただただ情けなくて,ここまで支えてくれた親たちやいろんな人たちに恩返しができなかった。感動を残せなかった。あんなに苦しくて長かった3年間はあっけなく終わった。泥と涙と汗に塗れた3年間だった。22番をつけて,悔しさだけが残った3年間。でもここでの成長は大きかった。監督の厳しい中で愛のある指導についていこうと必死だった。努力が身を結んだことはほとんどなかった。それでも,このチームで3年間やってきてよかったと心から思えた。簡単には語れない怒涛の3年間でした。大学生大学でも思い入れのある22番をつけてのソフトボール。初めて楽しいソフトボールを知った。こんなに楽しく大好きな仲間たちとソフトができるのが嬉しかった。ミスは攻めるんじゃなくてみんなで笑い飛ばして。そして喜びは全員で分かち合う。みんなが活躍する姿を見るだけで,何よりも嬉しくて楽しかった。大学ではキャッチャーとして試合に出してもらうことができた。高校の時ずっとブルペンで悔しい思いをしてた自分がいたからこそ大学でのソフトボールは仲間に恵まれて楽しかった。最後の大会を本気で全力でやり切ることができてよかった。まとめ苦しかったり悔しかったり嬉しかったりのソフトボール人生。でもここで強くなり,ここで成長し,本物の仲間を得ました。だから,やってきてよかったなぁと思います。思い出も仲間も一生物の宝物です。いろんなことがあったけど成長の大きすぎる感動の大きすぎる13年間でした。これにて完。これまでどれだけのみんなとソフトしてきたのかなって考えたらすごい人数だなぁ。先輩も後輩も同期も,みんなとソフトができて嬉しかったし楽しかった。ソフトボールは本当にとっても素敵なスポーツだと思います。自分のためだけのソフトボール記録でした。 ダウンロード copy #自分 #教育 #成長 #スポーツ #大学 #部活 #ソフトボール #にしむらかおる #等身大の教育 44 この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか? サポート