「Kyoto Creative Assemblage」のスタイル:2年目の私的更新
2024年3月9日、Kyoto Creative Assemblageの第二期修了式がおこなわれ、一期生にも声かけいただき参加してきました。京都大学、京都工芸繊維大学、京都市立芸術大学の各大学の担当講義・演習の振り返りに加えて、二期生のみなさんを交えたパネルセッションの時間もあり、一期生にとっても気づきの多い時間でした。それに触発されて、私が修了した一年前に書いたプログラム全体像の考察に対して、自ら更新するためにこの記事を書きます。
プログラム全体像
私は第二期Part1にメンターとして参加しましたが、Part2およびアート演習には関わっていませんでした。修了式で語られた内容を聞く限り、Part2およびアート演習の大筋は第一期と変わっていなかったため、一個人の解釈としてまとめた第一期プログラム全体像と同様に第二期も捉えられるように感じました。
上記考察の後半では、「アッサンブラージュ」(Deleuze & Guattari)を経由して「スタイル」(Spinosa, Flores & Dreyfus)の切り口からプログラムを述べてみましたが、実は、第二期Part1(「エステティック・ストラテジー」)はこれらの概念がない理論的枠組みに更新されています(参考:2年目の私的まとめ前編、後編)。それを認識したうえで、あえて、考察のこの箇所を更新してみたいと思います。
第一期Part1用語編を書いた時点では講義資料を抜粋するように書いていましたが、その後、Spinosa, Flores and Dreyfus(1997)『Disclosing New Worlds: Entrepreneurship, Democratic Action, and the Cultivation of Solidarity』を読みました。そのなかでは、スタイルについて以下のように説明されています。
私は一年前の考察のなかで、プログラム全体像に対して「そこには『新しい世界観をつくる』という一貫したスタイルがあるように(いま思い返すと)感じていました」と書きましたが、「新しい世界観をつくる」はスタイルではなく意味(あるいは実践の目的・結果)なのではないか、と修了式のパネルセッションを聞いているなかで感じました。
スタイル
では、「Kyoto Creative Assemblage」のスタイルは何か。私は、“説明不可能性へのフルコンタクト”という言葉で表現したいと思います。
説明不可能性を書き下すなら、「すべてを言葉にしえないし、わかることもできないが、確かにあると思えるもの、確かにあると感じられること」といった文章になるでしょうか。Part1での無-意味、Part2-1でのLARPのリアリティ、Part2-2のディープケア、Part2-3の肩入れしたいステークホルダー、そしてアート演習そのもの。半年間のプログラムを通して、さまざまな角度から、説明不可能性と向き合うことになります。
フルコンタクトは、修了式に参加されていた佐藤可士和さんが、パネルセッションのなかで「自分の仕事としては、バランスを見極めつつ、寸止めではなく、極真空手のようにフルコンタクトでやることを心掛けている」という趣旨でおっしゃった言葉です。正直、この言葉に代わる言葉を見つけられませんでした。説明不可能性への肉薄でもなく、接触でもなく、ガツンと突き詰めてぶつかる感じ。身体性という言葉もパネルセッションのなかでたびたび出てきましたが、フルコンタクトはそのニュアンスがうまく含意された言葉だと思いました。(佐藤可士和さんの「自分の仕事もスポーティにしている」という言葉も印象的でした。)
引用したスタイルの説明も踏まえると、次の通りです。“説明不可能性へのフルコンタクト”というスタイルを基盤として、「新しい世界観をつくる」実践を保存/開発する活動が、Kyoto Creative Assemblageである。そのように一年前の考察を更新したいと思いました。
結びに代えて
“説明不可能性へのフルコンタクト”というスタイルは、説明責任を求められる大半のビジネスパーソンにとって、従来とは異なる(=新しい)スタイルに感じられるではないでしょうか。だからこそ、受講生は当惑し、いかに本業に持ち帰るか悩みながらも、可能性を感じ、魅せられるのだと思います。この意味で、一年前の考察の以下内容については、第二期を通じて確信と期待を強めました。