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ひとりDialogue:「佐藤可士和の仕事を読み解く」を読み解く

第三期が開講中のKyoto Creative Assemblageでは、受講生以外も聴講/アーカイブ視聴が可能な「Dialogue」というトークイベントがたびたび開催される。そのシリーズとして毎年11-12月に実施されているのが、佐藤可士和さんが手がけたプロジェクトを山内裕先生が読み解くという形式でのDialogueである。このシリーズは毎回会場参加しか設けられていないが、過去2年に開催された内容はアーカイブがすでに公開されている。
2022年11月11日:「佐藤可士和の創造性を読み解く」
2023年12月1日:「イノベーションのアート: 新しい価値創造の方向性 - 佐藤可士和」
そして2024年11月8日、「社会課題とデザイナー -佐藤可士和の仕事を読み解く-」が実施された。今年もアーカイブとして公開予定とのことだが(2025年1月14日追記:アーカイブ公開に伴いURL差し替え済み)、(幸いにも3年続けて)会場で聴講できたので、自身の頭のなかに巡ったことを思考が新鮮なうちに綴っておきたい。なお、当然ながら以下の内容は個人の勝手な解釈にすぎない。


佐藤可士和さんのプロジェクトとして今年取り上げられた題材は「GLP ALFALINK相模原」であった。このプロジェクトで佐藤可士和さんが手がけた“デザイン”について、山内先生は「意味が差し引かれていくデザイン」だと形容した。意味が発生する空虚な場をデザインすることで、新しい意味が生み出される、という。「結果として、そのままの自分が肯定される」という山内先生の説明も鑑みると、この新しい意味を生み出すのは“その場に集う人々それぞれ”だと私は解釈したが、この点はJacques Rancièreの「解放」とも対応しているように思う。

そのようなデザインには「フラットな表現ーー持ち上げない、神聖化しない」ことが重要だという山内先生の説明に対して、佐藤可士和さんは、上下関係を示す両手を90度倒すような手振りとともに「フラットに見える視点を探すこと」と応答された(手振りについては、円錐が見る角度によって三角形にも円にも見えることを想起いただきたい)。つまり、この文脈での“フラット”とは、評価軸自体が存在しない状態を指しているため、平坦な直線のようなイメージスキーマに即して”フラット”という言葉を受け止めると趣旨を捉え損ねる可能性がある。佐藤可士和さんの終盤の発言「アップデートではなく別次元をつくりたいと思っている」というイメージスキーマをうまく乗り越えた言語表現には唸ってしまった。

ここでイメージスキーマという認知言語学の考え方を取り出したのは、今年のDialogueを聞く中で『Metaphors we live by(邦題:レトリックと人生)』を思い出したからだ。

山内先生との「意味が差し引かれていくデザイン」の応答のなかで、佐藤可士和さんは「説明しようとしないこと」、説明や命名のような「言葉が空間を規定している(してしまう)こと」を言及された。そのうえで、2023年の題材であったセブンプレミアムにもふれられながら、「ロゴなどの記号は、全てを差し引いてはいない。ALFALINKだからアルファ αの形なんだな、とか誘導があるほうが吸収が早い。そういったきっかけが掴めるぐらいのレベルはある」という。

この“きっかけが掴めるぐらいのレベル”は、昨年のDialogueで、佐藤可士和さんが手がけたロゴについての解説(21:00〜)でも同様の趣旨が語られていた。

意味のあるビジュアルをアイデアと呼びがちだが、あまり必要ではないと思っている。解釈しなくてはいけないイメージが入るとスピードが遅くなる。TだからTポイントとか、意味がないというかレイヤーがない。Rはなんですかと言われたら、RakutenのRです、そりゃそうでしょと。それは意味ではない、だから記号。一番簡潔で意味のレイヤーが薄い記号をつくろうとやっている。

「イノベーションのアート: 新しい価値創造の方向性 - 佐藤可士和」内での佐藤可士和さんの発言より

これらの解説での重要な点は、レイヤーが”薄い”、つまり、”ゼロではなく何が残るのか”ということではないだろうか。

それは、身体化された(と言えるほど公理的な)知識ではないかと考えた。アルファだからαという言語由来のものもあれば、ユニクロ(2022年の題材)のロゴをエンジ色から原色の赤に変更したという視覚由来のものもあるだろう。もしくは、2023年のDialougeでも少しふれられたFOMA N702iDの直線で構成された本体という触覚由来のものもある。『Metaphors we live by』で述べられる通り、多くのメタファーは身体を基盤としている(「気分が”上がる”」)。

2022年のQAセッションで、佐藤可士和さんの軸について問われたときに、「透明で空っぽになりたい、したい」とも発言されていた(もちろん文脈のうえでの発言。1:23:00〜参照)。透明で空っぽであっても、身体はあるだろう。その身体は、社会や構造でもなく、唯一の個体でもなく、人々の共通項になりうる。

「意味が差し引かれていくデザイン」は、決してロゴ(記号)に閉じた話ではないが、差し引くなかで何が残るのか、つまりデザインの拠り所になるのか、という点では、通じる部分があるように感じている。


来年の「佐藤可士和の仕事を読み解く」も、ぜひ聴講したい。

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