徳が積まれていく
先日、こんな記事を書いた。
日本人の私が「豊かな人生」と思うことが、すなわち諸外国の人にとっても同じように「豊かで(憧れるような)人生」ではないだろうと、私自身がなぜ思ったのか。
それを言語化したいと思ったのだが、できなかった。
私は学生の頃に論文を書くために長時間同じことを考え続けている中で、「よく分からないことはそのままpending状態で脳に置いておく」ということをするようになった。何かが分かるまでそのことを考え続けていると、何も前に進まないからだ。
私の生活は、そういった脳の活動に支配されまくっている。
疑問が生じ、仮説をあれやこれやと立てて、即座に検証に移ることもあれば、そのまま「???」状態で置いておくことも多い。すぐにその存在を忘れてしまうような小さな疑問から、脳内がそのことで占有されて取り憑かれたように考えてしまうものまで濃淡はあるが、とりあえずしまっておくのだ。そしてその脳内の小さな疑問が、ある日突然ガッテンすることがある。
どうやらそのガッテンした時に脳内ホルモンが大量分泌されるようで、そのクセがやめられなくなった。常に脳内に思考途中の何かが大量ストックされ、将来の知的な快感を得る日を待っているのである。
過去の経験から、ゆったりとコーヒーを飲みながらぼんやり考えていてガッテンしたことはほとんどなくて、別のなにか、例えばダイソン掃除機をガーガーと雑にかけているような時に、脳内で色々なことを突き合わせて最終的な結論を見出してしまうことが多い。
その結論に至る直前に、何らかのトリガーとなる出来事があり、それに端を発してシナプスがつながり、最終的に他の作業をしているときに結論を(脳内で)まとめ上げるのだ。
先日、あるベーカリーショップに行ってきたのだが、そこでまたまたシナプスがつながってしまった。
店長さんは都会から地元に戻り、親が保有する土地に店舗を構え開業した。当時から地元では評判のお店だったらしいが、我が家からはそこそこ距離がある。朝から自転車を漕いでシニア二人がそのお店を目指した。
朝にオープンすると、小一時間で売り切れてしまうらしい(汗)。朝イチで行かねばならない。
店舗に到着すると、すでに行列ができていた。
こんなど田舎の、周囲には畑しかないような場所に車が所狭しと駐車されていたのを見た時は、かなり衝撃を受けた。
インスタの時代だからではない。インスタなどやっていないような年齢のおじさま&おばさまの行列なのだ。田舎では、今でもクチコミが最大のマーケティングツールなのである。
私達のすぐ前に並んでいたおばさまは、常連さんらしい。
「そんなに美味しいのかしらん?」
ここまで人を集められるのってすごいよね。
中に入ると、本当に小さなベイカリーショップであった。一人ずつしか入れないので、行列は外にできているのだ。
家から近いというほどでもないので頻繁に来れるわけでもない。色々な商品をカゴに入れていく。店長さんとの会話も楽しい。
朝食を食べない私達だが、帰宅してすぐに頂くことにした。
ほのかに薫るアールグレイとオレンジピールの味が、乾いた脳に染み渡った。
都会では競合がたくさんいるかもしれないが、田舎でこのクオリティなら爆売れ必至である。めちゃくちゃ美味しかったし、丁寧に作られているのが分かった。味わうだけで彼のこれまでのストーリーが目に浮かぶようであった。
もっと作れば、もっと売れるのに。
都会のど真ん中に住んでいたなら、そう考えるのが普通だ。
私も香港にいる時は、本当に1分1秒を競うかのごとくハイスピードで成長し続けることが是だというムードに違和感を覚えたことはなかった。世界有数のスピード感で物事が動き、やりとりされる数字も桁違いだ。成功者は世界のトップオブトップであり、そのヒエラルキーの尺度が揺らぐことなど絶対になかった。
文字通り、富める人が「豊か」な人生を送る。
香港の最下層と言われる人達の住環境は、日本人からすると絶句するレベルだ。彼らは毎日仕事もせずに遊び惚けているからそういう生活なのかというと、そうではない。その家とも呼べない場所から仕事に行き、休むことなく働き続けてもその生活から脱出できるのかできないのか、できるならそれはいつなのかが分からないような人生を送るのだ。
立派なアパート(タワマン)に住める人生ならば。
アパート名を言うだけで目の前の人の表情がサッと気色ばむような物件に住める生活ならば。
それを求めてやまない社会なら、経済的に富める人でありさえすればいいと、私でも思う。
でも、日本のカルチャーは、それだけを正解としない。
そのお店は、実家の敷地内に小さな店舗を構えているので、おそらく固定費は圧倒的に低い。ほぼ無視できるくらいかも知れない。コストといえば材料費と光熱費程度かも知れない。だから初年度から黒字だっただろう。午前と午後で、それぞれ1時間程度で売り切れる分を作り、それは人々にとても愛されていてリピーターさんも多くいる。そして現にこの私に「美味しすぎて泣きそう」と言わしめちゃうのである。
彼は田舎に戻ってきてからは、子供さんと一緒に朝食をとり、保育園に連れて行ったりするそうだ。多くの商品を作り、もっと利益を出すことは可能だけどそれをしないのは、家族との時間も大切だと彼自身が思っているからだ。
彼の中に、徳が積まれていく..........。
自分の私腹を肥やすことに一直線に向かっているわけではないけれど、家族が生活するのに十分な稼ぎがあり、二度とは来ない子供との時間も大切にする。そして将来の夢とかそんな大袈裟なことではなく、今現在の自分の生き方として寸分の狂いもなくやりたいことをやっているのに、なぜか人々から求められ、待つことすら享受するように人を惹きつけてしまうのだ。それはすなわち結果的に誰かにポジティブなものを与え続けているのだ。美味しいという快感とか、あのお店に行こうとする意欲だとか、お友達にオススメしたいと思う気持ちだとかを、狙ってもいないのに引き出してしまう。
日本の人たちが「ていねいな暮らし」を求めるのには訳がある。日本の多くの方々は特定宗教を持たないはずなのだが、なぜか宗教心が強いのは、精神性や過程(プロセス)というものをとても大事に思うカルチャーがあるからだ。仕事にも家事にも介護にも保育にも、心を込めたり、そこに楽しみを見出したりもする。
自分だけが良ければいいというのも違うだろうし
自分を犠牲にして他者に尽くすというのも逆に欺瞞的にも思える
自分が心の底から楽しんで打ち込めることで、他者にも利益を与えることができるなんて
人間として、すこぶる正しく見えちゃう。
だから彼の人生やこれまでのストーリーが、日本人の私には豊かに見えてしまうのだ。そしてこれからも彼の徳は少しずつ積み上がっていくのだ。
分かる。
韓国にも中国&香港にも友達がたくさんいたから分かるが、今でこそこれらの国の人たちもクラフト(手芸)などを趣味にする人が出て来ているけれど、「手を使う仕事」を嫌う傾向が大いにある。自分の子供がそういう仕事につくことを嫌い、そういう仕事を目指すことを許さないカルチャーだ。他国のカルチャーについてどうこう言うつもりもないけれど、そういう彼らの言動に遭遇する度に、「私ってば、やっぱり日本人なんだな」という思いを強くする。
手を使う仕事を嫌うどころか、それをすることで自己肯定感が爆上がりしちゃったりする民族である。日々の家事や雑事などのやるべきことから逃げない姿勢を尊ぶのだ。そして平凡な日常の中にも、自身の精神性を磨くチャンスがそこここにあることを知っているのだ。
シナプスが繋がったよ。
「豊かに見える」の主語は「心」。
でね。ここでもう一段考えたいことがあって。
お掃除をDEEBOTくんに丸投げ、料理をヘルシオさんとホットクックさんなどの調理家電に丸投げ、洗濯は洗濯機と衣類乾燥除湿機に丸投げな私。
オレの精神性は地に落ちているのか........というと、そうとは思っていないのだわ。
人によって、精神性を磨く場所は異なっているのだよ。
仕事で社会貢献できる人も、芸術で誰かを勇気づける人も、料理で人を感動させる人も、みんな自分の持ち場で自分を磨き続けているなら、それはもう正しい生き方だよね。どっちがどうとは言えないし、自分で自分の生き方に納得していて後悔がないなら、人からの評価なんてどうでもいいしさ。
「豊かな人生」というものの因子が、ぼんやりと見えてきたよ。全部じゃないけど。
とはいえ葛藤もある。
グローバルに見ると日本は衰退の一途を辿っていて、成長産業のどこかの部分で食い込んで、後人にできるだけ豊かな国を残したいとは思うのだが、それは「心の豊かさ」とは相容れないのか否か。
日本人ぽいカルチャーで、世界に貢献できることがありそうだと長年考えてはいるのだけれど、のどまで出かかっている気がしても出てこない。
いつかまた、シナプスがつながるといいなぁ。
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