音楽を聴くのにも、環境がいるのね
リノベの最中、ちょうど自分たちで壁紙を貼っている時だったんだけど、深夜にカナメが、クローバを現場に持ち込み、音楽を大音響でかけ始めた。彼としては二重窓の防音効果がどれほどかを調べたかったらしいんだけど、反響音がすごくてびっくりした。AV機器にそれほど関心のない私は、そのエコーがカッコよく聞こえて、さすが天井高いだけあるなと思ったのだが、カナメがこぼした一言が気になった。
「マズイな........」
後で知ったのだが、カナメはあの時にかなりビビり、天井抜いたのは失敗だったかも、とまで思ったらしい。まぁ天井のせいではなかったということは、後に分かった。実際に住み始めると、一切気にならなくなった。その理由について書いてみる。
まずはこの動画。めっちゃカッコいいけど、見るところはそこじゃなくて、この壁、壁、壁。
至る所に、凹凸を作ってあるのよね。わざと。
大阪生まれの大阪育ち。幾度となく通った大阪のフェスティバルホール。アーティストのコンサートと言えば、ここだったな。ここの壁も凹凸だらけ......。
そう。
モノがない四角い壁と天井と床だけの空間、しかも二重窓にして気密性が高くなっている場合はさらに、音は反射を繰り返して反響がひどくなってしまうらしい。逆に、色々な方向へ音を拡散させると、その反響音は軽減される。
音を拡散させるためには、それなりに壁を加工しなければならないのか、というと、そうではない。フツーに家具などを置けば凹凸が生じてしまうので、自然と落ち着く。当然だ。
モノを多く置きたくないと思ってはいるが、壁には一面にKALLAXの棚がそびえ立っているし、天井からエアコンやプロジェクター、ライトがぶら下がっている。ソファーもテーブルも置いているし、床には一部カーペットを敷き、壁にはアートの作品も飾っている。凹凸だらけでんがな。だから、問題はなくなった。そして、一般的なご家庭でも、反響音が問題になることはほとんどないと思う。
そこで、思い出したのは、日本のミニマリストさんのことだ。
写真で見る限り、彼らの部屋は凹凸が少ない。なぜ「日本」と付けるかと言うと、英語圏における「minimalist」とは概念が違うっぽいからなのだ。例えば英語圏におけるミニマリストさんの典型的イメージってこういうのなのよね。
確かにモノは少ないんだけど、自分の好きなテイストのインテリアは置いてあるのよ。もっとわかりやすいのが、こういう例。
大好きなアイテムがいっぱい!!!
「とにかくアイテム数さえ少なくすればミニマリスト!」というわけではなくて、不必要な雑多なものは多く持たずに、自分が好きなアイテムだけを配置し、快適になるスタイリッシュで居心地の良い空間を追求してる。モノの数にこだわらず、自分がキュン(Spark Joy)するものは、ちゃんと配置している様に見える。
ミニマリストさんの中にも音楽の趣味がある人もいると思うんだけど、反響云々以前に音楽システムすら置いていない方もいるし(ヘッドフォン派なのかな?)、あったとしても反響音が気にならないのかなとか、チラと思ってしまった。
個人的に、「人間は自由に自分の人生を選択できるし、それを選べる世の中であって欲しい」と思っていて、他人様の行動や言動に干渉するべきではない、とも思う。強く強く思う。だから彼らの生き方に直接何かを言う気はさらさらないのだが、日本人ぽいなとは思ったのだ。
日本では「手段が目的化している」ように見える例が多い。本当に多い。日本のカルチャーかお家芸かと思う程だ。だから私は、彼らを見て実に日本人ぽいなと思ったのだ。
minimalistさんの求めているものは、(イケイケどんどんの資本主義における過消費に対するアンチテーゼのニュアンスも含むが)多くのモノに囲まれてストレスフルに生活するのではなく、またそれに心惑わされることなく、シンプルで自分にとっての価値あるもの、時間、行動にフォーカスして生きることなんじゃないかと勝手に理解している。たくさんのモノを所有することに対する嫌悪感は、わからないでもない。私も海外引越しの際に、家が決まるまではレジデンシャルホテル住まいになるのだけれど、最低限のモノだけで生活には全く困らないからね。大量の段ボール箱を積み込んだ船便に何が入っているんだろうと思うことは多々ある。
家の中にあるアイテム数を絞ることは、手段ではあるけれど、目的ではないよね。その人にとっての人生を通して最高に快適な住環境がそれなのかなと思うと、たぶん違うんじゃないかなと思ったりする。
ゲームが好きなら、屋根裏部屋にゲーミングルームを作って籠もりたいと思うかもしれないし、料理が好きなら大きな作業エリアが欲しいと思うだろう。楽器の演奏が好きなら、完全防音の部屋が欲しいと思うだろう。でもそうではなく、最小のエリア、最低限のアイテム、しかもそれを更に減らそうとする行為は、快適な住空間の実現ではなく、手段が目的化してるように見えてしまうのだ。そして「ミニマリストとはこういう人」というフレーム(固定観念)に、どんどんと自分自身を落とし込んでいるのかなとも思う。
自分で創出した唯一無二を目指すのではなく、外部のフレームに自分側が合わせに行っている、というと分かりやすいかも。
なぜ日本では手段が目的化してしまうのか。
今日カナメと色々と話していたのだが、結論は出なかった。カナメは一人で「上(経営者や上層部の人間)が無能で、競争に勝つという目的をうやむやにして、それ(手段)を仕事にして、評価されてしまうからだ」とか言っていた。ビジネスコンテキストではそう言う面もあるかもしれないが、それだけではないだろう。深く深く反省している内面など誰も読み取れないのに、それよりも「反省しているフリ」が求められたりするのも同根な気がするのだが、よくわからない。
複数の人間が集まる集団において、社会生活を送るためにはルールが必要となるのは理解できる。「集団生活をうまく機能させる」という目的のためにできたルールが、いつの間にか「ルールを守ることが目的」になっている場合が多々ある。
目的があって(到達すべき何かがあるから)会議をしているはずなのに、なぜか会議すること自体が仕事だと思っている会社員もいる。子供の学びを深めるための学校なのに、学びの内容よりも「出席すること(ただその場に存在すること)」に価値を求めるような学校教育の方針にも、ニッポンらしさが現れている。
逆に、中華系の人と付き合うと、彼らが良くも悪くも「目的のためには手段を選ばず(=最短距離を行く、効率よく動く)」行動していると感じる。言い方を変えると、「手段が目的化するなんてことは、あり得ない」のである。それでは目的に到達しないからだ。
話はそれたが、田舎で住む私たちにとっての最高の住居は、Urban(都会的な)を感じさせるものであって欲しいし、カナメにとっては、音楽や動画の再生において最高の環境にしたいと考え、日々色々と手を加えている。
自分にとって最高の住空間を求めるならば、あまりフレームにこだわらずに、イチイチ自分の頭で考えて取捨選択していいと思うのだ。外野に「ダッセー」とか言われたって、全然へっちゃらなのよ。外野が住むんじゃなくて、自分が住む家だからね!
ちなみに、仏教的に、多くを持たず、多くを望まず、修行をするかのごとく暮らすことを目的に、ミニマリストを実践されている方もいらっしゃるかもしれないので、そういう方にとっては、日本式スタイルは、まさに王道だよな、とも思う。
ちなみに私は、仏教の本は大量に読んでいて、めっちゃ参考にしているよ。