昭和40年生まれの初代ニュータウン育ち。ちょっと前の中国を体現してたのかも。
私が生まれ育ったのは、大阪府吹田市にある「千里ニュータウン」という場所である。正確には「15年間」住んでいたことになる。
親が分譲マンションを購入して引っ越すまでは、ずっと団地住まいであった。
転居時には、壁がボロボロになっていて鉄筋が露わになっている部分すらあり、「これを直すのに、お金をたくさん払うのだろうか」と心配したほどである。
今でもハッキリと間取りを思い出せる3DKの物件で、おそらく入居時に付属していたテーブルを、長い間使っていたように思う。
テーブルと椅子が付属していた理由は、「食事はダイニングで椅子に座って召し上がれ」というライフスタイルの提案だったらしい。
当時の日本では、木造の平屋の家で、畳の上にちゃぶ台をおいて、正座や胡座(あぐら)でご飯を食べているのが日常だったので、今の時代に想像する「団地暮らし」と、当時のそれとはニュアンスが異なると思う。
当時の感覚としては、5階建ての鉄筋コンクリート造での暮らしは、「ちょっとしたマンション住まい」の雰囲気があったと思われる。
大家族の面倒を嫁が全部ひっかぶる時代にあって、核家族としての生活が成り立つ家というものは、無条件で歓迎されたに違いない。抽選の倍率も高くて、当選したと聞いた時、母は飛び上がって喜んだらしい。
晴海フラッグかよ、って感じである。
大きくなってから、その当時の父の収入が2万円代で、そのうちの半分ほどが賃料だったと聞いた。感覚的に言えば、20万円の収入で10万円の分譲マンションを賃貸で借りている、という感じだったかも。
そこから父の収入は文字通り桁違いに上がり、銀行に預けているだけで、残高がザクザクと増えた。そして当時の月給やボーナスは現金支給だった。小学生くらいの頃に、ずっしりと重く分厚い封筒のボーナスを持たせてもらったことがある。
私が生まれてからほんの10年ほどの間に、日本はとんでもない飛躍を遂げたことが、実感を持って感じられたものだ。
ニュータウン内は、見渡す限り団地だらけであった。
自分の家から最寄りの北千里駅までは、そんな団地ばかりが立ち並んでいた。周辺もすべて、エリア名は違えどずっとずっと団地であった。
唯一の習い事であるピアノの先生も団地住まい、兄の習い事であった水泳の先生も別の棟の団地住まいの方だった。
お友達もみんなみんな、その団地の中にいた。お友達の電話番号も家(棟と部屋番号)もすべて頭に入っていた。
友達たちの多くは、団地群の中にある「集会所」と呼ばれる場所で、「習字」と「そろばん」を習うのが常であった。習い事がピアノだけだった当時の私は、とてもとても暇で自由だった。
とにもかくにも子供だらけ。どんどんと子供ばかりが増えていった。
小学校では教室の部屋数が足りなくなり、校庭にプレハブ校舎が建てられた。もちろんエアコンなどない。そこで授業を受けた兄が「めちゃくちゃ暑かった」と言っていたのを覚えている。
月曜日には校庭で朝礼があり、暑い季節には毎回のように誰かが倒れていて、それがフツーの光景だった。校庭におびただしい数の子供が並んでいるのだから、体調を崩す子が数人いても不思議ではない。
小学校では、ハサミを手に持ったまま廊下で走った男の子が、出会い頭に誰かにぶつかって、相手が流血して救急車が来たことがあった。それから「廊下は走らないように」というスローガンが廊下に貼られることとなった。
ケンカが高じて鼻血を出した子がいたり、窓ガラスに突っ込んでガラスと血が飛び散った現場を掃除したこともあった。今思うと修羅とかカオスだとしか言えない環境にいたが、大人数の中でただただ生きていくしかなかったのだ。
真面目に日々を過ごす多くの普通の子供たちは、「こういう環境で生きるしかない」と思っていたし、他の選択肢があるなんてことは、思いもよらなかったのだ。
私は、そんな町で育った。
団地住みの状況がよく描かれていたのは、井ノ原快彦くんが原案の「ピカ☆ンチ」という二部作の映画である(その後、続編も出たようだが)。初めてこの映画を見たときには「イノッチの才能こわっ」と思ったものよ。
私とは育った時代とエリアが違うけれども、富裕層がいない上に、良くも悪くも経済状況が似たような家庭だけが住む猥雑でカオスな町の雰囲気がとてもよく描かれていた。
そして選択肢もなく、そこで生きるしかなかった子供たちの苦悩も。
団地とは、大人になってからは「選べるならば、絶対に選ばない場所」である。戻りたくはないし、自分の子供をそこで育てたいとは思わない。
経済的に豊かになった世帯は、どんどんとマンションや戸建てに移動して行った。そこが素敵で素晴らしい場所ならば引っ越す必要などない。だから「そこから抜け出せなかった人たち」の層は、あるレベルに固定されて行ってしまった。
大学生の頃には、「団地に住む必要のないくらい経済的に成功したい」と思った記憶がある。
バイト代を貯めて、バックパックを背負って船で上海に降り立ったのは、19歳の時だった。
当時の中国は、とにかく人が多くて、バスに乗るにも大衆の勢いに任せて乗り込むしかなく、バス代を払うにも身動きができず、ぎゅうぎゅう詰めの中、周囲の人に頼んで車掌さんのところまでバケツリレーのようにお金を渡してもらったりしていた。
何かあると大声を出すような印象のある中国人ではあるが、多くの人は「群衆の中でなんとか生き切るしかない」ということを理解しているため、淡々と日々を生きている印象があった。
彼らの多くは、勤勉で、真面目で、日々を一所懸命に生きる人たちであった。家族を愛し、仲間との会話を楽しむ、悠久の地の人たちでもあった。
それから数十年後、香港のエキシビションセンターで開催されたSATと呼ばれる(米国大学進学時に求められる)統一試験の会場に来ていた多くの学生さん達を見て、「黙って努力する中国人たち」を思い出した。
彼らは決まってキャリーケースを転がしてきていた。だから香港人ではないと、すぐに区別がついた。
そして、彼らはとてもとても静かだった。
キャリーケースを持った男子学生が、どうやらパスポートを持ってくるのを忘れたらしく、何とかならないかと事務方に問い合わせている現場に遭遇したが、受験が認められないと分かると、がっかりした表情で静かにその場を離れた。
何かあると大声でクレームをつけたり、無理を通して道理を引っ込める感の強い韓国人とは、全く異なるなと感じた。韓国の人口なら、大声をあげれば取り合ってくれるのかもしれないが、中国では、そんなことにイチイチ対応してもらえない、自分のことは自分で守るしかない、と思っているように感じた。
ニュータウンで大勢の子供たちの中で黙って小さな息をするしかなかった経験のある私は、彼らの気持ちがとてもよく分かった。
選択肢などない。
生きるしかないのだ。
でもその先にきっと小さな光はある。
自分で突破すれば、光はあるのだ。
だから黙って努力を続けるしかない、と。
中国の発展は、「アクションを起こせば、光はある」と人々が信じられたことにあると思う。実際にそうだったし。
インドも同じだろう。「IT技術者になれば、身分など関係なしに富裕層に食い込める。海外に出られれば身分など関係はない」と信じられたはずだ。
子供が大量にいた時代の団地住まいの人たちは、イケイケどんどんだった時代の中国の社会をチラと体現していたのかもしれない。
社会のルールを変えられるとか、大声で訴えれば自分にケアが向くかもとか、世間が悪いと言えば多数からの賛同を得られるとか、そんなことは想像すらできなかった。ただただ自分で這い上がるしかなかったあの重苦しい気持ちは、おそらく少し前の中国の人たちと同じとは言わないまでも、近いものがあったと思う。
だが、そういった場所で子供時代は切磋琢磨すべき、などとは1ミリも思わない。
大衆に揉まれる中でバリバリと頭角を現す人が出る一方で、将来に絶望して自ら命を落とす人もたくさんいたのだよ。人間とは醜い生き物で、他人を傷つけても平気な人もいる。子供の言葉は暴力的で、そんな子供が大量にいる状況で、大人からは見えない場所で、子ども達の世界では、いろいろなことがあったのだ。
全体から見ると、それは単なる弱肉強食で、単なる淘汰であったかもしれないが、本人からするとたまったもんじゃない。
だから、そんなかつてのカオスなニュータウンが、そのままで良いと思わない。変化して若い世代を惹きつける何かがなければ。
ところが現実は、素人の私がふわっと考えることよりも、遥かに刺激的に動いていた。
かつてのニュータウンのど真ん中に、タワマン建設計画が!!!
今に生きる人にとって住み良い街であることを願うのみだ。