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人は、アウトプットでしか測れない

 外国語を学習し、そのネイティブスピーカーと会話をしたことがある方なら、誰もが経験したことだと思う。

私自身は過去に数カ国語の学習歴があり、その度にかなり凹むようなことも多々あった。

日本語なら色々とアレコレと言えることでも、脳内に意見はたくさんあっても、それを表現するには拙い能力しかなかった私。その時に話せる単語と文法と発音能力を駆使して、なんとか発言しようとしていた。

私の発言は、たぶん幼稚園児のように聞こえたであろう。

知っている単語だけで話をしようとすると、それはとても稚拙で短い文章になる。そしてそれを聞いていた人は、私のことを聡明な人とは絶対に思えない。

単にバカだと思われただけだ。

悔しいけれど、その悔しさすら表現できないまま時間は過ぎる。

悲しいことに、私の脳内の複雑な動き、日本語ならば言えたであろうアレコレの文章も、アウトプットされなければ「存在しないもの」である。

感情を表出させるもの、例えば目の動き等を含めた顔の表情や、手の動き、立ち居振る舞いなどによって、相手に何らかのメッセージを送ることはできる。

が、知性は伝えられないのだ。言語化しない限り。

人は、眼前にいる人の発言や紡ぎ出した文章の内容を精査することで、相手の知的活動を理解する。逆に言うと、低いレベルの活動でも、それを如何なく(例えばほぼ100%に近く)言語化できる人と、高等な脳内活動がありつつも表現力だけが稚拙であった場合、圧倒的に前者の方が「賢い」と判断されてしまうことが多々あった。

だから長らく、営業マンのように言語化に長けて、それを相手にうまく伝えて、相手に購買行動を起こさせる人の価値が高く、またその判定が正しいことだと思われてきたのかも。

つまりだ。

人間の知能とは、言語を含んだアウトプットでしかないってことだ。
外界に向かって発せられたもの限定なのだ。

今後は、脳内の電気信号がそのまま抽出できるようになり、それが言語を介さずに何らかのアウトプットになる可能性がなきにしもあらずだけれど、人間が認識するためには、結局言語化が必須になるような気もする。

言語化ができないと、どういうことが起こるかという例を二つ挙げたい。

一つは自閉症の子供さんの例だ。

かなり前に自閉症のお子さんが自らの言葉で綴った書籍を読んだ時、衝撃を受けた覚えがある。(kindle unlimitedで読めるので是非是非!)

外から見ているだけでは、その人の脳内の複雑な動き、感情や言葉は、他人には一切分からないのだと言う思いを強くした。そしてそれがどれほど残酷なことかも。

誰もが脳内では自由に思考を羽ばたかせて、きめの細やかな感情の揺れを経験している。が、それは言葉に変換されて外界に向かって吐き出されない限り、ゼロと見做されてしまう。

もう一つは、医療ミス(だと親族は思っている)で亡くなった叔母の例だ。

彼女は、三週間程度の予定で初期の胃がんの切除手術を受けた。多少の胃痛はあったようだが、それ以外は健康そのもので、会社の健康診断で偶然見つかったごくごく初期の胃がんを切除するとのことだった。入院初日にお見舞いに行って、ベッドの上に腰掛けながら「まぁ死ぬような手術ではないから」と笑った美しい叔母が、手術後から寝たきりになった。

ある時点から、もう意識もなく完全に食物人間になったような説明を受けたある日、聞こえないであろうと思いつつ、母が叔母に色々と話しかけていたところ、叔母が涙を流したのだ。

ショックだった。

すべて聞こえていて、脳もちゃんと動いていて、きっと痛いとかしんどいとか、どうして自分はこうなってしまったのかとか、色々と言いたい、そして聞きたいことはたくさんあったであろうに、身動きができない、顔の表情も変えられない、そして言葉を発することができなかっただけで、

何も感じていないし
何も考えてもいないし

と周囲にいる人たちは思い込んでいたわけだ。

ほどなく叔母は亡くなってしまったが、彼女の脳内の動きが多少なりとも分かれば、もっとしてあげられることはあったんじゃないかと落ち込んだ。聞こえているならば、横で本でも読んであげたら、長い長い苦痛に満ちた時間において、多少なりとも気が紛れたんじゃないかとか、後悔は尽きないのである。

人は子供を教育する時に、脳に何らかの知識をたくさん詰め込むことに躍起になるけれど、それをベースにどんなに複雑な思考を繰り返していても、それが表出されなければ無に等しいということについて、もっと真剣に考えないといけないと思う。

そして言語によるAIが台頭している今、その重要性はさらに増していると感じる。

(人間の脳内を)言語化さえできれば、あとの処理はAIで可能になったのだから。


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