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自分だけの「愉(たの)しい暮らし」を定義しよう
日本語で発信されている情報が限定されているからか、日本で何かが流行ると、「いわゆるひとつの型」みたいなものが形成されがちだなと感じる。
たとえば「ミニマリスト」という言葉を聞くと、日本人の脳裏には、「なにも置かれていない床に座っている人」とか「ダンナの大事なモノを捨てまくる鬼嫁」なんかが浮かんでしまう。
「ていねいな暮らし」もそうだ。
美しい陶器製のお皿をていねいに手洗いし、清潔に洗われてパリッと乾いたリネンでそれを拭う姿が見えてしまう。磨き上げられたステンレスのシンク。籐のバスケット、野菜たっぷりの素敵なワンプレートブランチ、みたいなのが見える。
ある一つのワードから導き出されるイメージというものが、「画一化されたスタイル」になってしまっているのだ。
そういう、皆が一様に想像できてしまうような「なにか」が、個人的にはあまり好きではないのだ。
大阪人は、根っからの逆張り志向というか、「どちらかというと、少数派の方が美味しい」と思ってしまう傾向がある。
と同時に、多数派に属することに対する漫然とした嫌悪感や、それに対する居心地の悪さを感じてしまう。
皆、ほんまはそれぞれ違うやろ?
人間なんて、全員違うに決まってるやん。
ホンマにそれが、やりたいことなんか?
と思ってしまうのだ。
それぞれの偏愛を炸裂させよ、と思ってしまうのだ。
多数派に属していることで安心感を得るのは危険だと、心の底で感じてしまうのだ。
とはいえ「言葉一つで万人が一様に似たようなイメージを持てること」の凄さが、「言葉の威力」でもあろう。そうでないと会話が成り立たない。
でね。
ミニマリストを目指すのもいいし、ていねいな暮らしに憧れる気持ちもとってもわかるけれど、これからは「愉(たの)しい暮らし」をテーマとして推していきたいと思うようになった。
このワードだと、個々人によってイメージするものが一つに定まらない。
愉しさって個人によって全く違うものやん。
音楽が趣味の人とバイクが趣味な人では、愉しい暮らしのイメージは全く違う。
その愉しい暮らしを実現するための家も、まったく違うものになるはずである。
みんなが憧れる暮らしである必要はないし、
人に見せびらかすものでもないし、
もっと言えば、家具や家電のセレクトから違うし、
それをもって他人から批判されることは、ありえないわけやん。
それでも日本の住居を見てみると、ある一定の範囲内での小さなオプションがあるだけで、あんまり「愉しい暮らし」を実現できているようには思えないのだ。
家に対するイメージそのもののバリエーションが少なすぎると思うのである。
なにごとにおいても人目を気にせず、OTAKU道を極めてもいいと思うのよね。
それを住居に適用しても、いいと思うのだ。
愉(たの)しい暮らしは人によって違う、それを定義することに時間をかけよ
と強く思うのだ。
建築家の家(特にTiny House)を見るのが好きなのだが、彼らは本当に自由な発想を持っている。
必ずしも広い家が正義なわけでもなく、家電のセレクトを何にするかとか、そういう枝葉末節なこと以前に、家のコンセプトが明確であり、発想が自由である。
あなたの求める住空間は、他人がふわっと一言で伝えられる、共通イメージと同じであるはずはないのだ。
考えて、考えて、もっと考えて、自分にとっての愉しい暮らしを自分で定義することをお勧めしたい。
そしてその次に待っているのは、家庭内バトルである........orz
偏愛って家族の間でも共有されることないからなぁああああ。
まぁ頑張って議論してみてね。