プランB・おでんD
当たり前だと思っていること
よる
キツネが2匹通った
1匹はすぐに走り去る
1匹は振り返り、何度か目が合う
あさ
いつもと同じ道、同じこと
見上げるていた金色の唐松は
ふかふかのカーペットになり
今朝は粉砂糖を纏っている
意識をしないこと
習慣化・オートマ化していること
自分のなかで、当たり前になっていたことに
改めて一歩外側からの視点を持ってみる
四季のうつろいは、多様な視点を与えてくれる
自然は常に動かざれども、全く同じものはないだよ、と気づかされる
あれ、なんで、ここにいるんだっけ 当たり前だと思っていることの中に、自分の選択がみえてくる
ひとつからふたつになることで、無限になる
「A」という選択=点がある。
「A」という点が2つになると、「A」と「A以外」という概念が生まれる。
3つになると関係性の選択肢が増える。
その先は無限に可能性が広がっていく。
「ねばならぬ」という「点」であることを手放すと、「線」「面」「動き」などのたくさんの選択肢があることに気づく。
ひとつじゃないと思えた瞬間、赦され、緩まる。
肩の荷を下ろして休んでもいい。
降りていく生き方
「ゆとり世代」のはじっこに生まれ、世の中は右肩あがりに進んでいく直線的なものではないのだろうな、と感じながら成長してきた。
直線的では無いものの、ある程度の枠組みはあり、大学を卒業して就職するという大きな流れは変わらずに目の前にあったように思う。
(小学校から考えると、4割くらいの同級生はこのルートを辿っていないから、バラエティーに富んでいてとても面白い)
当たり前だと思っていたことは、誰かが表明している当たり前なのであって、
他の誰かにとっては特別なことなのかもしれない。
多重人格な脳内を泳ぐ
わたしの脳内は、「あんたバカぁ?」という少女の声や、「ケ、セラ〜セラ〜〜」と歌いあげる少年など賑やかだ。脳内会議を意識している人はどれくらいいるのだろうか。
もしかしたら、この声が大きくなると「幻聴さん」としてさらに存在感を増すのかもしれない。彼らが生き生きできる状態である方が、望ましい状態だと思っている。声が大きい人がいるほど、意識がそちらに向き、反対側を考えることができるからだ。
もちろん脳内会議では話題にならないことがたくさんある。わたしの脳内世界はひとつの小さな領地でしかない。
だからこそ、他の人の話を聞くことが大好きだ。内容そのものが示唆に富んでいることもあるが、好物は「どうしてその結論に至ったのかのプロセス」が垣間見える瞬間だ。背景を知ることや、結論に至った変遷には、その人それぞれの秘伝のタレがたっぷり詰まっている。じゅるり。
おでんはDaikon
いろんな味わいが染み出している、季節の食べ物といえばおでん。とりあえず何を入れておいてもOKという出汁の懐の広さに感謝。
元々とっても偏食なのだけれど、秘伝の出し汁に漬け込まれたような人に囲まれながら、最近は食わず嫌いをせずに、ちょっとは咀嚼するようにしている。
プランBという選択肢を増やしつつも、やっぱり鉄板の大根とちくわぶは外せないんだよなー。
●ひなこ