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働くことと暮らすこと①
働くと暮らすを区切ることはできるのか?したいのか?
今日目が覚めたということを喜べるようになりたいと思い、四季折々の借景が美しい窓辺を選んだ。朝日を感じたいから、カーテンはつけていない。日々たくさんの感情の中で過ごすことは新しい発見と、意外性に富んでいる。その情報がネガティヴであれポジティブであれ、データの処理には脳へ負荷がかかっている。
今日、知的生産に携わる人間は、時間労働によって身体的に疲弊するのではなく、頭脳の処理による負荷で疲弊している。問題は「時間」よりも「演算ストレス」であり、近代が「タイムマネジメントの時代」であったのに対して、現代は「ストレスマネジメントの時代」なのだ。そこで求められるのは、ストレスをマインドセットから除外し、いかにストレスフリーの環境で働くかという発想だ。1日の時間を直方体型に切り分けるのではなく、それらを柔らかな線でつなげて成り立つように、我々の思考を作り変えていく必要がある。
「ライフアズワーク」と言われる中で、わたしは区切りが明確な方がバランスがとりやすいと感じている。主には場所による制限を設けることを切り替えの合図として選択することが多い。デバイスさえあればどこからでもアクセスができるが故に、空間の変化を利用して意識的に距離をとりたいと思っている。(「即レス」が苦手で、仕事スイッチを入れることでようやく社会人ギリギリのラインにしがみついているだけなのだけど。)
リセットする習慣やきっかけってなんだろう
サラリーマンである場合は、時間・成果・賃金のトライアングルは不可避であろう。定められた時間の中で業務に邁進する。さて、働くことから解き放たれたシンデレラは暮らしの時間をどのように過ごしているのだろう。
働くことと暮らすこと
暮らしの中に仕事があるという感覚を体感したことがない。極端にいえば、オフグリッドな生活で地産地消を極めようと思えば、ローカルに寄り添った自給自足に近い暮らしになっていくと思う。私の働きと私の暮らしは、現時点では直線で結ばれてはいない。お金というシステムを経由して、今の私の暮らしは支えられている。金銭を介した価値づけや交換はとても便利だけれど、私の中では距離(例えば、仕事と暮らしの間にある距離)が生じるための一つの装置としての機能や意味も含まれている。
いつもの行動に問いを持つ
買い物へ行こうと思い立ち、面倒だなと思う気持ちと身体を持ち上げる。そしてエンジンをかけ、買い物かごからエコバッグに詰め替えた野菜たちを抱えて帰路に着く。その動作の中に、歩いていくことや、自転車でいくという選択は含まれていなかった。暮らしのなかで自分で選んだ行動が増えること。買い物かごの中身に知っている土地のものが増えること。日々の積み重ねている行動や習慣の中で見ようとしていない部分に意識を巡らせてみることで、働くことと暮らすことの間のいい塩梅の距離感を模索中だ。
●ひなこ