「赤ちゃんポスト」と言わない勇気を手放さないでほしい
<文:田北雅裕>
「赤ちゃんポスト」の課題は「赤ちゃんポスト」と呼ばれ続けていること
先の日曜、豊田市のとよたこどもの権利フォーラム2024に登壇した。
前日から豊田入りする予定だったけど、「『赤ちゃんポスト』の最新の課題を理解し『内密出産』の法制度を検討する勉強会」が東京で開催されることを知り、急遽参加してきた。
内密出産の法制化に賛同する伊藤たかえ議員、酒井なつみ議員、石井苗子議員、山田太郎議員らが集まり、基調講演には慈恵病院の蓮田院長。この場でどうしてもみなさんに伝えたいことがあった。
内密出産の法制化は賛成だ。でも、今このタイミングで、ぜひ解決して頂きたい「赤ちゃんポスト」の課題がある。
それは、「赤ちゃんポスト」という名称が今もなお、使われ続けていることだ。
その課題に、議員のみなさんにぜひ向き合って頂きたい。
「赤ちゃんポスト」という名称について、「こうのとりのゆりかご(ゆりかご)」に託された当事者の子どもや若者たちが懸念を表明してくれている。こども家庭庁の設立や、こども基本法の成立—— 子どもの権利の保障を目指すのであれば、「ゆりかご」に託される子どもの立場にたって、「赤ちゃんポスト」という名称の広がりに、疑問を呈してほしい。
「赤ちゃんポスト」の始まり
17年前、そもそも慈恵病院は「赤ちゃんポスト」という名称が与える印象を危惧して、「こうのとりのゆりかご」と名付けた。
しかし、日本で最初に(「ゆりかご」のモデルとなる)ドイツの「Babyklappe(ベビークラッペ)」が紹介された教材ビデオで「赤ちゃんポスト」と称されたことと、その名称がキャッチーであるがゆえにメディアが積極的に用い、すっかり浸透してしまった。
浸透してしまった「赤ちゃんポスト」
長年「赤ちゃんポスト」と呼ばれ続けたがゆえに、「赤ちゃんポスト」が浸透した。
そうした背景から、そもそもは「赤ちゃんポスト」という名称に違和感を感じていた人ですら、あえて「赤ちゃんポスト」と使う判断をされた方もいる。そのほうが、社会全体や預けようとする人たちに伝わると、判断されたからだ。
あるいは、名称に葛藤しながら、用いる結果となった方もいる。編集者や出版社に押きられるかたちで「赤ちゃんポスト」と書いてしまった方もいる。
記号学的に言うと、この現象はコノテーションと言う。本来の意味に新たな意味が付与されて、本来の意味が感じづらくなる。そもそもは違和感を感じていたはずの記号に慣れてしまう。
しかしここで大切なことは、本来の記号である「赤ちゃんポスト」の意味が、なくなるわけではないということだ。
つまり、ゆりかごに託された子どもや若者たちにとっての「赤ちゃんポスト」に対する違和感は、変わらない。
いま、最も尊重しなくてはいけないのはその子どもたちの気持ち、じゃなかろうか。
子どもたちの声
ゆりかごに託された宮津航一くんが、ゆりかご開設から15年経ったそのときに、「今までの15年は大人にとってのゆりかごだったけど、これからの15年は、子どもにとってのゆりかごでありたい」と語ってくれた。そして「赤ちゃんポスト」という名称に、今でも懸念を持ち続けている。
「赤ちゃんポスト」を社会として受け入れてしまった僕らは、彼の言葉を真摯に受けとめるべきじゃなかろうか。
「赤ちゃんポスト」という名称を子どもの立場に立った名称に変えるとしたら、内密出産の法制度化が検討され、そして、東京に第二の「ゆりかご」が設立されようとしている、今こそ、ではなかろうか。
勉強会の最後に、みなさんに提案させて頂いた。
社会に実装され得ることを想定したら、個人的には「赤ちゃんシェルター」という名称がふさわしいと考えている。その思いも伝えた。
しかし蓮田院長は、「こうのとりのゆりかご」よりも「赤ちゃんポスト」が、予期せぬ妊娠などで困っている女性に伝わるからと、おっしゃった。
残念ながら意図が伝わらなかった。僕の意見の主旨は、まず「赤ちゃんポスト」という名称を使わない状態を目指すこと。そして(「こうのとりのゆりかご」ではなく)「赤ちゃんポスト」に代わる名称として「赤ちゃんシェルター」を定着させていった方がよいという主旨だった。時間がなかったので、それ以降のやりとりはできなかった。(後日、改めてお伝えするつもりである)
確かに「こうのとりのゆりかご」は、蓮田院長がおっしゃるように浸透しにくい。
それは、名称そのものに帰する理由だけでなく、慈恵病院の「固有の名称」であることがひとつ。
そして、「こうのとりのゆりかご」は、出自を知る権利と、預かり後の子どもの最善の利益の担保を最大限目指していることもあり、24時間匿名で相談を受け付ける「相談機能」につながることが目指されることも影響している。
そのために、赤ちゃんを匿名で預かる「シェルター機能」と「相談機能」を総称した支援システムの名称として「こうのとりのゆりかご」が用いられることもある。そうした複雑さも、名称の浸透しにくさに影響していると考えられる。
とはいえ、「こうのとりのゆりかご」は、そこに託された子どもたちにとっては、大切な名称である。
僕の提案は、「こうのとりのゆりかご」の名称はそのままに、シェルター機能について、例えば「赤ちゃんシェルター」と称するものだ。そして「こうのとりのゆりかご」を「赤ちゃんポスト」と呼んでしまっている人たちは「赤ちゃんシェルター」あるいは「こうのとりのゆりかご」と呼び変えてほしい。そうすることで、「赤ちゃんポスト」に代わる言葉として「赤ちゃんシェルター」が機能していくはずだ。
このシェルター機能は海外では「baby box」とも呼ばれ、近年、日本でも用いられることがある。でもそうしたプラグマティックな名称ではなく、親にとっても子どもにとっても齟齬がない「意味」を込めたい。
もちろん浸透には時間がかかる。だからこそ未来の子どもたちのために、今すぐに行動を起こしたい。今日ここに集まった人たちが一丸となれば、不可能ではないはずだ。
帰り際、話しかけてくださった方がいた。ゆりかごに預けられた子どもと縁組を結んだ方だった。お子さんも、赤ちゃんポストが嫌だと言っていると、教えてくださった。そして、発言に感謝してくださった。ありがたかった。
「こうのとりのゆりかご」は、その設置者や関係者の思いも重なりながら、当事者の子どもたちにとってかけがえのない言葉となっている。「こうのとりのゆりかご」という名称を大切に維持しながら、「赤ちゃんポスト」と言われない社会を目指したい。
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これからも、「ゆりかご」に預けられる子どもは増えていく。そして、第二の「ゆりかご」がつくられようとしている。
「こうのとりのゆりかご」という固有の名称から、「赤ちゃんポスト」なる一般化へとさらに記号が強化されようとしているこのタイミングで、そもそも「赤ちゃんポスト」に感じていた違和感を、思い起こしてほしい。
様々な心情が過ぎるだろう。広く知らしめるという意味で、「赤ちゃんポスト」にメリットを感じることがあるかもしれない。緊急下にある女性のためと、解釈してしまうこともあると思う。
でも、そうした解釈は、当初はしていなかったはずだ。マスメディアの論理のもとで蓄積した今に至る長い時間と、アテンション・エコノミーに同調した市井へのまなざしが、正当化させてしまっているだけなのだ。
そもそも、匿名のまま子どもが預けられる前に、相談機関や内密出産につながる方が望ましい。そして「ゆりかご」に「子どもに生きてもらいたい」という切実な思いでたどり着く人たちがいる。
そういう状況の中においても、「すでに知られている」「インパクトがある」等という理由で、当事者が違和感を感じる「赤ちゃんポスト」という名称を、これからも使い続ける理由があるだろうか。
むしろ、「赤ちゃんポスト」という名称を使わない姿勢を示すこと、使わなくてよい社会を目指すことが、ゆりかごに託そうとする切実な女性と子ども、そして未来に向けての力強いメッセージになるのではないか。
当事者の子どもの権利と尊厳に向き合い判断すること。その根本に常に立ち返ることが求められている。
あなたの中で少しでも違和感が残っているのなら、どうか「赤ちゃんポスト」と言わない勇気を、手放さないでほしい。
「こうのとりのゆりかご」は「赤ちゃんポスト」ではない。(2021年5月6日執筆)
5月10日、「こうのとりのゆりかご」が10年目を迎えた。それに応じて各紙で報じられたニュースに目を通す。
昨年度末までに「125人の子どもが預けられた」事実をどのメディアも報じている。けれど、その子どもたち以外に、少なくとも「294人の子どもたちの命が救われた」事実は、あまり報じられていない。
授業などで「ゆりかご」の話をすると、預けられた子どもを慈恵病院が育てていると誤解している人が少なくない。しかしそれはあり得ない。法的には、慈恵病院は「遺棄された子どもの第一発見者」となる。
遺棄された子どもは、児童福祉法上の「要保護児童」にあたるので、病院は「児童相談所」へ速やかに通告しなくてはならない。そして戸籍法上の「棄児」であり、保護責任者遺棄罪にあたる可能性があるので、「警察」にも通報しなくてはならない。
児童相談所は、社会調査により「産みの親」を探すとともに、子どもの処遇を見極める。匿名で預けられ、産みの親が分からない子どもたちのほとんどは、乳児院か児童養護施設で暮らしていくことになる。
つまり、「ゆりかご」に匿名で預けられた時点で、慈恵病院は子どもの育ちに関与できなくなるのだ(健康上の理由によりしばらく病院で過ごすケースはある)。
ちなみに警察は、事件性の有無を確認するが、遺棄罪に問われることはほとんどない。なぜなら、子どもが置かれる場所は、生命に危険が及ばないよう最大限に配慮された安全な設備だからだ。
多くのメディアは、「匿名で預けられること」について、子どもの「出自を知る権利」が脅かされる点を指摘する。しかしリスクはそれだけではない。匿名である事実は「新しい家族」で育つための「特別養子縁組」を結ぶための障害にもなる。
「特別養子縁組」を結ぶためには、原則として、産みの親の同意が必要となる。また、同意が得られない時は「虐待の事実」や明確に「悪意がある遺棄」等が認められる必要がある。
しかし匿名なので、親の所在は分からず同意は得られない。預けた場所は安全だし、意図も見えにくい。そのため縁組の成立が困難になるケースが少なくない。
つまり、匿名のまま「ゆりかご」に預けられることは、慈恵病院にとっても、決して好ましいことではない。預けられた子どもがどんなに心配でも、その育ちに関与できなくなるし、何より、あたらしい家庭的な環境で、子どもが育つ可能性が低くなる。
慈恵病院は、匿名のまま「ゆりかご」に預けられることを、望んでいないのだ。 まずはその事実を、ぼくらはしっかりと受けとめる必要がある。
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一方、「ゆりかご」をきっかけに、慈恵病院が母子を支援できるケースもある。それは慈恵病院が、子どもを預かる設備と共に設けている(24時間匿名で相談できる)相談窓口に「預けられる前」に相談があったとき、あるいは預けに来た本人と接触できたときだ。
預けられる前の相談であれば、(遺棄されているわけではないので)警察や児童相談所に通告する必要はない。病院で、出産に至る母子を支え、そしてネットワークを活かし「特別養子縁組」へとつなぐことが可能となる。
上記の西日本の記事はつまり、「預ける前」に相談・接触があったケースについて、294人の子どもを特別養子縁組につなぐことができたという、「ゆりかご」の大きな可能性について述べたものだ。
つまり、「こうのとりのゆりかご」は、多くの人が感じているような、匿名で赤ちゃんを預け入れることができる「ポスト」ではない。
危険な場所に遺棄される可能性のあった赤ちゃんを「シェルター」とも言うべき安全な設備で預かることができ、匿名で安心して(なぜなら医療機関なので)相談可能な、孤立した母子を支える「支援システム」なのだ。
「赤ちゃんポスト」という名称は、慈恵病院が付けたわけではない。
子どもを匿名で預かるドイツの「Babyklappe」が日本ではじめて紹介された際、あるNPOが啓発ビデオで使用した名称である。
慈恵病院は当初から「こうのとりのゆりかご」と名付けていたにも関わらず、その「赤ちゃんポスト」を一般名称として、メディアが使い続けてきたのだ。
当該NPOは、決して「赤ちゃんポスト」と安易に名付けたわけではない(※) しかしその主旨からすると、個人的には「赤ちゃんシェルター」という名称の方がふさわしい気はしている。
「こうのとりのゆりかご」は「赤ちゃんシェルター」とも言うべき設備を備えた「支援システム」。そこに何らかの不備を感じるとするならば、それはぼくらの、つまり「社会側の不備」である。
昨年12月に国内でようやく成立した、養子縁組のあっせんを公的に支える法律(正式名:民間あっせん機関による養子縁組のあっせんに係る児童の保護等に関する法律)。たとえばドイツでは、1930年代から養子縁組のあっせんを、公的にフォローしていた。
そしてドイツには、「Babyklappe」だけでなく、「子どもが出自を知る権利」を担保した上で、匿名で医療機関で出産できる「内密出産」という制度がある(名前をどこにも明かさない「匿名出産」は推奨されていない)。さらに「Babyklappe」は、出産を終えたばかりの母子を支える「マザーチャイルドハウス」という施設と連携し「支援システム」として機能しているのだ。
日本に「内密出産」制度があるならば、そして「マザーチャイルドハウス」のような、孤立してしまった母子を支え、エンパワーメントできる施設があるならば、(移民の多さや宗教的な背景で「Babyklappe」が残り続けるドイツとは異なり)日本においては「匿名で赤ちゃんを預かる設備=赤ちゃんシェルター」は、限りなく必要なくなるだろう。
「ゆりかご」を批判しても、社会から孤立してしまった母親やその子どもたちは救われない。というか、「ゆりかご」は、切実な境遇にある母子を救ってくれているだけでなく、ぼくら社会側の責務を映し出してくれているのだ。
もし「ゆりかご」がなかったら、少なくとも125人の子どもたちは、そして新しい家族と出会えた294人の子どもたちは、どのような人生を送ることになっていただろう?
「『ゆりかご』に預けられるようなリスク」を抱えてしまっている子どもたちが、社会から孤立し閉じた家族のもとで、そのリスクを抱えたまま、これからも生き続けなければならないとしたら…?
10年を経て、これからの母子支援のあり方を問うたとき、ぼくらが向き合うべきは「赤ちゃんポスト」ではなく、「こうのとりのゆりかご」という名の「支援システム」ではなかろうか。その眼差しの先に見えてくる景色にこそ、次に歩むべき道があるように思えてならない。