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いつか・どこか・なにか……を求めてエンドレスに続いていく 非二元・ノンデュアリティ・悟り探求の終わらせ方

ナチュラルスピリットさんのYouTubeチャンネル
StarPeople & 岩戸開きチャンネル」に動画をあげていただきました。


最後の最後までのこる探究心

(……という名の思考のうごき)

についておしゃべりしてみた動画になります


タイミングによっては混乱してしまう方もいるかもしれませんが、すいません、非二元って…こういうことを言ったり話したりするんです笑


たとえば、、、


長年にわたって瞑想などのワークをしているのに、いわゆる「悟れない」というような人たちも、たくさんいるようです。



それはなぜか?


最後の最後までのこる探究心
(……という名の思考のうごき)


そこで起きているであろう
思考的探求というものの限界点(視点)です



観察者の感覚だ。

それが「自分」なんだという感覚、

自分は観察者、経験主体、感覚主体、思考主体で、すべてのものごとに気づいている人なんだっていう感覚。 

自分はジムやジェーンという名前の個人だと考えるのをやめて、そのかわりに観照者になる。

静寂になる。空間の拡がりになる。
行為になる。出来事になる。経験になる。

で、じつはそのどれもが事実とは違う。

観照者が見つかるだろうか。観照者は?

観照者や観察者として存在しているっていう感覚も
またひとつの経験だってことに注意してみよう


これのこと(ジョーイ・ロット著)より


たぶん ここ でひっかかっちゃっている。


この 観照者や観察者という感覚 が
悟ったり右脳回帰するとおもっている
(思考のうごき)


この 観照者や観察者という感覚 から

悟りって、右脳回帰って、、、
これかな? これのことかな? 

そう……探しつづけている

ずーっと……探究しつづける
……思考のうごき

アタマは延々と
「知りたい、わかりたい」
をやりつづけるだけ……。


だから、アタマ(思考)が
なにかを本質的に理解することはありません。

延々と……「 わからない⇄わかった 」をやりつづける「だけ」の動きでしかなく、ただ、そういう思考的動きを「したいだけ」の思考の動きでしかないんです。


それなのに、アタマ(思考)は
ずーーーっと、こうおもって、動いています。


アタマ(思考)で 理解 できたら、
アタマ(思考)で わかる ことができたなら、、、
なにかが起きる( 変化が起きるはずだ )


こうやって「ぐるぐる思考」を維持しつづけている。

それは、遠くにみえる
蜃気楼を追い求めるような動きと似ています。


でも実際は


ただ、そのような思考のうごきが

『繰り返されているだけ』

あとづげの描写であり、
それ以上でもそれ以下でもない
「 単なる思考のぐるぐる 」です


ここに気づいてみると 
思考の無意味さ に気づきます。


コトバをつかって
「つかもうと」することの無意味さです。


それが腑に落ちたときの敗北感
(怒りや悲しみがおきてくることもありますが)

実際には、それは「思考がこの事実に叩きのめされている」のです。

思考が「自分のものにできない」ことに
敗北しているかんじ感覚を味わっているんです。


そのような思考のうごきが「自分」でもなければ

そのような思考の動きが「悟る」わけでも
「右脳回帰する」わけでもない。


むしろ、そのような思考の動きが 


静まる、止まること……です。


そのような思考の動きに、


ただ気づいて、それにのっていかない

= その思考の動きと一体化しない

アタマじゃなくて
カラダの かんじ感覚 のほうにとどまるです。


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