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ずっと思考に住んでいる…まさに「思考バーチャルリアリティ」→→→ないが「ある」を確かめる。
今回のおはなしは、こんなかんじのこと。
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いま、体感、かんじ感覚として「ある」ものが
記憶・思考由来(=いまここにない)場合もある。
体感は「ある」けど
そういう意味では「ない」
それはまるで
カーテンの後ろのオバケ👻
それが確かめられるまでは
「ある」ていになっているけど
カーテンをめくってみるとい「ない」
という事実が確認される。
それまでは
戦々恐々ドキドキワクワク
というかんじ感覚が「ある」
でも、実際は、、、
その原因そのものは
実在してい「ない」
確かめることによってはじめて、
リアリティではなく
「思考イメージ由来のあれこれ」
だったことが確認される。
kindle本でも書いていたことですが、
いま「ある」これを避けるから、
いまここが「ないない」になる。
いま・ある・かんじ感覚を避ける…というより
その「ある」と信じきっているなにかは、
もう「ない」と確かめる、そのプロセスは、、、
かんかくON=いまここ
確かめるは
思考じゃなくて「かんかく」だから。
それ、、、いま・ここに「ある」???
この問いを「思考」でやるんじゃなくて、
「思考」に入っていくんじゃなくて、、、
確かめる=かんじてみる。
それ、見える?
それ、触れる?
「五感」を通して
いまここで確かめられる??
感情と呼ばれているかんじ感覚も
「= 抽象度のあがった思考 」
……なにが言いたいかっていうと
それも思考=いまここにない 笑
あるものは「ある」けど
ないものは「ない」
どーしたって「ない」
いま目の前に「ない」
いまここに「ない」
記憶、思考でしか「ない」
どーやったって、、、
どーしようもないぐらい「ない」
、、、ってことを確かめてみる。
逆もしかり。
あるものは「ある」
どーしようもなく「ある」
どーしたって「ある」
多くの悩みごとが
「いま・ここにない」なにかについての
思考・もうぞう・プロジェクトマッピング
いま目の前に「ない」
いまここに「ない」
記憶、思考でしか「ない」
そんなふうに「ない」
、、、、ということに気づけないとき
それについての「もうぞう」をしつづける。
いま、味わっている「かんじ感覚」
「かんじ感覚」の中にも
フレッシュな「いまの感覚」というより、
過去・記憶・思考由来のものがある。
それらを想起・思い出しているときの
かんじ感覚が「ある」けれど、、、
その「ある」を遡ってみると、
もう 実体・本体 がない。
肉体のない幽霊
=残留思念、記憶、データ
幽霊さんに「あなた、もう死んでますよ」と教えてあげるとえ???って消える…みたいなこと聞いたことありますが、
いまここの再認識、再定義、最新情報にアップデート。
「ある」とおもっていたものは
もう、いま目の前に「ない」
いまここに「ない」
記憶、思考でしか「ない」
記憶やイメージ、思い出でしか「ない」
カーテンのうしろのおばけ
「子供のときに食べた、あのカレーの味」
とおなじぐらい
いま・ここに「それはない」
、、、、ってことに気づいてみる。
左脳ワールドは
「 ある&ないがゴッチャの世界 」
「ある」も「ない」もおなじ扱い
「ある」も「ない」もいま・ここにある
…ってことになっているのが左脳ワールド
思考からスタートして
思考に終わる、、、
終始妄想
もうぞうにはじまり、
もうぞうに終わっていく
どこまでも思考の世界
ずっと思考にいる
ずっと思考に住んでいる
= 思考次元に生きている
思考が映し出すプロジェクトマッピング
(思考バーチャルリアリティ)に没入しているとき、
これがなかなか「わからない=気づけない」
= あるとないがごっちゃになっている。
それについて話しているそばから「 思考に流れていく・思考の中にはいっていく・思考の中で解決しようとする 」
それだよ、それ、、、それのことだよ、、、
と言っても「わからない=気づかない」ぐらいに
思考と一体化していて、思考に没入している
もう、当たり前に「それ=思考」になってる。
ฅ(º ロ º ฅ)ハッ
夢と現実
(ないとある)の区別がついてない
意識的であるというのは、、、
この「夢と現実の区別がついていること、その度合い」のようにおもう。( 右脳は、いまここに「ないものはない」というシンプルさ、生きやすさ )
いまここから
「記憶・思考由来の体感」を認識しなおす。
いまかんじている
「ある」とおもっているもの
「ある」と信じているもの
それが、いまここには
「もうない」と認識し直されること。
= 過去の記憶に関する再確認、ヒーリング、癒し
これも「アタマ」じゃおきない。
思考で「ないないない」と暗誦してみたり、
そうなんだって「アタマで信じる」ことではなくて、
実際に、そうなっている
「事実=いまここ」を確かめる。
かんじ かんかく
ある? これ、ある??
たとえば、、、
避けている「これ」
なんとはなしに、無意識に、あたりまえに
紛らわしている「このかんじ感覚」
これを、ぐいぐい確かめてみる😳
そのまま、かんじて、確かめてみる。
そのかんじ感覚の本体は
「いまここ」にあるだろうか??
もし、それが過去の出来事なら
いまここに、それは「もうない」はず。
だって、いまここじゃないから
「過去」と呼ばれているわけだから、、、
過去って「いま・ここ」にない
10年前も…
昨日も…
1時間前も…
さっきも…
1秒前も「過去」
いま・ここに、ない。
その事実を確認する。
ほんとだ、ほんとにないわ
、、、って確かめることによって
「 わかる=実感として起きること 」
腑に落ちることとして「ない」が確認される
ほんとに、どーしようもなく、、、
どーこーしなくたって
あたりまえに「もう、ない」わけだから、
そのリアリティを、そのまま実感するだけだ。
ウェルカムレイン☆サヤカ http://sky.holy.jp