知識というのは「絵の具」のようなもの
またまたYouTube動画のコメント欄でいただいたご質問へのお答えコーナーです。浮かんだコトバをお返事してみましたが、ちょっとマニアックなお話になっちゃいました(汗)
(以下は、noteバージョンとして追記してみています。)
ちょっとご質問からはズレちゃうかもしれないんですけど、、、どちらかというと一番最後の「さやかさんはどの様にして、 本から学びを得ていますか?」に対しての返答なのかなとおもいます。
本などから得られる知識
(アタマで理解できる概念)って、、、
俳句や詩吟や将棋をゲームたらしめるためのルール(それぞれの世界・界隈の独特のルールのようなもの)なのかもしれないですね。
「 俳句は575 短歌は57577 」
というルールの中で表現しますよね。
そういうルールだから…です。
その「ルールをつかって」表現して愉しみます。
そして、それがあるから……
そのコトバは「俳句」になり、
俳句と短歌は「違う」となるわけです。
おなじように科学には科学のルールがあって、そこから外れると「エセ科学」と言われてしまったりもするようです。
そのように、その世界、そのゲーム、
その界隈のルール・常識があって、、、
それをつかって、、、
【内側から溢れ出てくる、どうしても知りたくてしょうがない欲求】であったりを表現していく、、、つまり、知識というのは「そのための道具、手段、またはその遊び方=ルール」のようなものなのではないでしょうか。
そして、こんなふうにも言えるかもしれません。
たとえば、わたしは数学には詳しくないので、きっとわたしのところには「数式のインスピレーション」はやってこないとおもうし、おなじように絵をつかって描写することも得意ではないので、そのようなインスピレーションがきても「絵を使ってカタチ」にすることは、ほぼしません。
だから、そのようなインスピレーションが現れるとするなら、、、それを得意とする=それを表現する道具をもつ個性のところに浮かんでくるはずです。
それは言い換えると、、、
それが現れてくる準備のために、数学というルールや絵を描く技術を習得してみる…ということもアリだとおもうんです。
そのように表現したい「道具」を持つために。。。
という具合で、、、
知識というのは「絵の具」のようなもの
そのように本などから得られる知識というのは、いまここから溢れ出してくるものを描写するための道具やルール(=言語)
内側からやってくるものを「例える、描写する、そのための道具・手段・そのための土台、土壌つくり」なのではないかなっておもいます。
けれど、それらは料理を食べるための「スプーンのような道具」のようなものでしかなくって、その道具をつかってすくっている「料理そのもの」ではない…というかんじもします。
ウェルカムレイン☆サヤカ https://lit.link/wrsayaka