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欠けたままでいること
欠けている部分を埋めたいと思ったことは何度もある。
でも、それを埋める努力って、本当に割に合うんだろうか?
何かを頑張って、手に入れて、それでも心のどこかに「これじゃない感」が残る。
その繰り返しに、正直ちょっと飽きてきた。
かといって、「足りないままでいいんだよ」と悟ったふりをするのも、どこか偽善的で気が乗らない。
今回は、「欠乏感」に振り回される自分と、そのめんどくささについて考えてみたい。
欠乏感に振り回される日々
(1) 埋めようとしてもキリがない
例えば、仕事で成果を出したり、新しい趣味を始めたり、誰かとの関係を深めたりしてみる。
それでも、どこかで「これでいいの?」という疑問が頭をもたげる。
何かを手に入れるたびに、次の「もっと」が待っている。
「次こそ満たされるはず」という期待が、実は一番の罠なんじゃないかと思う。
何度繰り返しても、その「次」はやってこない。
それに気づくたび、「自分って本当にめんどくさいな」と思う。
(2) 「欠けている感覚」も一周回って飽きる
一方で、「欠けたままの自分を受け入れるのが大事」みたいな言葉にも、正直うんざりしている。
欠乏感をそのままにしておくのは、それはそれでストレスだ。
「足りない自分も愛そう」とか言われても、そんな理想論に乗っかれるほど自分は器用じゃない。
欠けていることに飽きるくらいなら、いっそ埋める努力を続けていた方がマシな気もしてくる。
欠乏感に向き合うことのめんどくささ
(1) 埋める努力が報われないのがしんどい
欠けた部分を埋めようと頑張ることには、ある種の中毒性がある。
達成感を求めて動き続けるうちに、気づけばその行為自体が目的になってしまう。
でも、頑張った先に待っているのが「こんなもんか」という感覚なら、最初から頑張らなければ良かったと思うこともある。
(2) 埋めないまま生きるのも面倒くさい
一方で、埋める努力をやめて「欠けたままでいい」と開き直るのも簡単ではない。
欠けたままの自分を受け入れようとすることは、ある意味で「自分に期待しない」ことを学ぶ作業でもある。
これがまた、なかなか骨が折れる。
欠乏感と適当に付き合う方法
(1) 完全に埋めなくてもいい、でも少し埋めるのもアリ
欠乏感を完全に埋めるのは無理でも、少しだけ埋めてみるのは悪くない。
例えば、何かを成し遂げようとするのではなく、小さな満足を拾い上げることに集中してみる。
「今日は部屋を片付けられた」
「お気に入りのコーヒーが美味しかった」
――そんな些細なことでいい。
全部埋める必要なんてないけれど、隙間を少しずつ埋めるくらいなら、負担も少ない。
(2) 埋めることにこだわらない時間を持つ
逆に、「今日は何もしない」と決める日を作るのもアリだ。
欠乏感を埋めるために動き続けるのが疲れたなら、いっそその埋める行為を放棄してみる。
そうすると、「何かしなきゃ」という焦りが少しだけ和らぐ瞬間がある。
おわりに
欠乏感を完全に埋めることはできないし、埋める努力にも正直飽きている。
それでも、たまに頑張ってみたり、頑張るのをやめてみたりしながら、適当に生きていくしかないのかもしれない。
欠けているままでも生きられる。
でも、埋める努力を続けるのも悪くない。
そのどちらも選べるような余白を持ちながら、自分のペースで進んでいけたらいいなと思う。
欠乏感に振り回されるのも、欠けた自分を受け入れるのも、どちらも簡単なことではない。
それでも、どこかで「まぁ、こんなもんか」と思える瞬間を大切にしていきたい。