この世界に潜む怒りや悲しみに
このタイトルを見て、こいつはいきなり何を言い出すのかと思う人もいれば、あぁあの歌かとピンとくる人もいるかもしれない。そう、Mr.Childrenの「タガタメ」のワンフレーズだ。
今年は(今年も?)世の中には暗い話題が多かったし、自身に近いコミュニティでもいざこざがあり、気持ちが落ち込んだ時にこの歌をよく聞いていた。
2023年の書き納めは、今更ではあるがこのフレーズについての考察としようと思う。
怒りや悲しみは誰のもの?
「私の」や「あなたの」ではない。怒りや悲しみは「この世界に」潜んでいるのだ。
考えてみると、世の中のニュースになるような出来事は、私達が直接関係しているものがほとんど無いことに気付く。
世界的な戦争からSNSでの炎上騒ぎに至るまで、私が被害者そのものになることは幸いにも無かったし、多くの人はそうなのではないだろうか。
でも、本当に怒りや悲しみを感じている人がどこかには確実にいるはずなのだ。そういう意味でこの歌詞はリアルな「傍観者」としての視点を見事に表していると思う。
一番のサビの歌詞でも、
とある。ここでも加害者や被害者になり得るのは「子供ら」であり、自分達自身が加害者にならないように気を付けようといったありがちなメッセージは欠片も見当たらない。
これはあくまでも現代日本の多くを占めるであろう傍観者に向けて書かれた歌なのである。
「それ」が指すものとは
国語の試験問題のような見出しになってしまった。この歌を最初に聞いたときからこの部分は不思議だった。
ストレートに読むと、直前に書かれている「怒りや悲しみ」を許すというよく分からない文になっている。なぜこのような書き方をしているのだろうか。
普通に考えれば「怒りや悲しみの原因となるモノ」(端的に言うと悪い奴ら)を許せるか?という読み方になるだろう。
しかしながらこの歌はそのような見方をすることを明確に拒否している。なんせ、このサビに入る直前に
なんて言っているのである。左とか右とかやけに政治色出してくるなぁと思っていたが、何にせよ怒りや悲しみの原因となる存在を明確化することを避けているように見える。
じゃあ「それ」は何なんだよということになるのだが、敢えて言うとすると「怒りや悲しみが存在してしまっている状況」そのものと言っても良いかもしれない。
許すとはどういうことなのか
人間は共感する生き物であるがゆえに、自分に関係無い出来事にも心が反応してしまう。傍観者でありながら、傍観者のままではいられないのが人間である。かといって直接問題を解決してあげられる力もない。
そういう状況で、傷ついている人に対して真剣に共感してあげるのはとても大変なことで、心の負荷が大きい。
悪とされる存在を攻撃することで手っ取り早くその負担は軽減されるのだが、そういうことをせずに、しかも無関心でいる訳でもなくひたすら一緒に悲しんであげる、そんなことがどれくらい私達にできるのだろうか?
そういった「心の容量」といったものを問うているのが「それを許せるかな?」というワンフレーズであるように思う。
もし心が耐えられなくなったら?それについても歌詞に記されている。
無関心でいるべき、と言っている訳ではないだろう。ただ、そういったネガティブな出来事にずっと心が晒されて辛くなったり誰かを攻撃したりしてしまうくらいなら、時には一時的にでも頭を空っぽにした方が良いんじゃない?
理想論では決してない、そんな現実的な解決方法が示されている。
先ほどSNSの炎上騒ぎと書いたが、この歌が書かれた時には無かった現象について鋭く指摘しているように思えてとても興味深かった。この情報過多の時代、私達の心の容量はすぐに一杯になってしまうのだろう。
おわりに
この歌が発表されたのは2004年、つまり来年でちょうど20年になる。
私が初めてこの歌を聴いたのは日清カップヌードルのCMだった。NO BORDER というコンセプトで作られた作品の数々は当時小学生だった私も子供ながらに考えさせられたし、今見ても色褪せない名作だと思う。
このCMシリーズの最後の方では国際宇宙ステーション(ISS)で宇宙食用のカップヌードルを宇宙飛行士が食べながら窓から地球を見る、そこには国境など存在しない、というものが放送されていた。その宇宙飛行士はソユーズで打ち上げられた、ロシア人のメンバーだった。
あれから20年経った今はどうだろうか?この世界に潜む、怒りや悲しみはますます増えていないだろうか?
きっと来年もたくさん出会うのだろう。でも、せめて心穏やかに過ごせるといいなとこの歌を聴いて思った。
2024年、良い年をお迎えください。