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木魚

「カナの手ってさ、米倉涼子みたいだよね」
唐突に、木魚にそう言われた。夕食を食べ終え、みかんを食べているときだった。米倉涼子と言われて気を悪くする女はそうはいないだろう。アタシもそうだ。
「あ、そうなんだ。ありがとう。米倉涼子の手、よく知ってたね」
みかんの白いのがある程度取れたところで口に入れる。甘酸っぱさが口に広がる。
「米倉涼子の手は知らないよ。なんで?」
そんなこと関係なくない?と言わんばかりに、木魚がそう応えた。
木魚は、みかんの白いのを取り続けている。きっちり取りたい派だ。
「アタシの手と似てるんでしょ?」
「そうだよ。カナの手が米倉涼子みたいなの。米倉涼子の手は関係ないじゃん」
「アタシの手と米倉涼子?手と人間ってこと?」「そうだよ」
木魚はみかんの白いのをきっちり取り終えると、満足したように口に運んだ。

木魚、というのはアタシの彼氏で、目の前でみかんをもしゃもしゃと食べている男のことだ。もちろん本名ではない。実家がお寺と言うわけでもない(実家がお寺だったとしても、そうそう木魚とは呼ばれないだろう)。見た目が木魚に似ている、ということでもない。子どものころから、木魚は考えごとをすると動きが止まる。ご飯を食べている途中でも、勉強している途中でも、ドッヂボールの途中でも、止まる。

ポク、ポク、ポク、・・・ちーん。

はい、活動再開。
動きが止まっている間に木魚の音が聞こえる、と誰かが言い出したらしい。
とんちを利かせて難問を解く、あのお坊さんが、考えごとをしているときの音。あの音が聞こえるって誰かが言い出して、それで木魚になったってわけ。止まっている間、ものすごく集中しているのか、単にボーっとしているのかは誰にも分からない。本人もよく分からないらしい。
そんな木魚との付き合いも、もうすぐ3年になろうとしている。

アタシは自分の手を眺めてみた。どこがどう米倉涼子なんだろうか。
右手と左手。手のひらと甲。パーとグー。いろんな角度から手を眺めてみたけれど、米倉涼子どころか、誰の顔にも見えない。そりゃそうだ。そんなアタシを気にも留めず、木魚はもくもくとみかんの白いのを取っている。曲がりなりにも話を真に受けようとしたアタシも、急にばかばかしくなった。何を言っているのか、さっぱりわからない。よし、忘れよう。
気を取り直して、みかんの続きに戻ろうとしたそのときだった。突然、手のひらに米倉涼子の顔が浮かんで、こちらに笑いかけてきたのだ。あの、「完璧」を絵に描いたような、美貌と自信に満ちたパーフェクトスマイル。後光が射して、眩しいくらいに輝いている。
驚いたアタシは慌てて手を閉じた。今のは何だ。悪い夢でも見ているのか。
小さく深呼吸をして呼吸を整え、それからゆっくりと手のひらを開いた。さっきは確実に、少なくともアタシの目には見えた、パーフェクトスマイルはそこにはなく、見慣れたしわが刻まれているだけだった。

「もっかい聞くけどさ、アタシの手と米倉涼子が似てんの?」「そうだよ」
木魚は2つ目のみかんに取り掛かっている。葉脈のように広がる白いのが一気に取れて嬉しそうだ。
「それって褒めてるの?」
「うーん、どうなんだろ。少なくともけなしてはいないよ」
「前から思ってたの?」
「うん、割と前から」
「ほかにも似てる人っているの?」
「いるんじゃない。僕はほかに知らないけど」
木魚は再び、白いのがほとんど無いきれいなみかんを満足そうに口に運ぶ。それを見ているとアタシももう1つ食べたくなった。
「それにしてもさ、『さっきの夕食おいしかったね』とか、『今日は天気が良かったね』みたいな他愛もない会話と地続きに言ったけど、全然意味わかんないよね」
木魚がこちらを見た。動きが止まる。

ポク、ポク、ポク、・・・ちーん。

はい、活動再開。
もう少し説明してくれるのかと待ってみたけれど、今までの会話は全部忘れてしまったかのように再びみかんに戻った。仕方なくアタシもみかんに戻り、二人してしばらくの間、黙ってみかんを食べた。
小さな声がしたのは、アタシが2つ目、木魚が3つ目のみかんを食べ終えようとしていたときだった。いや、正確には、始めは声だと分からなかった。どこかから物音がするなあなんて呑気に構えていると、音は徐々に大きくなっていき、それが声だと分かった。
・・・です。・・です。・・・。
「ねえ、なんか聞こえない?」アタシは木魚にも聞こえているかどうか確かめた。
「うん。聞こえる」やけに木魚は落ち着いている。
「多分、副村さんだよ」
「え?ソエムラ?」
全く状況が理解できなかったうえに、木魚は妙に落ち着いていて、アタシだけ荒野に取り残されたような気分になった。砂混じりの風が容赦なく吹きつけてくる荒野だ。視界が霞み、眩暈がしてきた。朦朧とする意識のなか、みかんを載せたかごはガタガタと動き出し、やがて1つのみかんが飛び出してきた。
「ソエムラです、ソエムラです。ソエムラノリコです」
え?米倉涼子!?

3日ほど前、アタシがいないときに木魚と副村さんは出会った。明け方近くまで眠れず、ようやく眠りについた木魚を起こさないように、アタシは仕事に出かけた。静かな家。誰もいないと思った副村さんがリビングで鼻歌を歌っていたところ、寝室から出てきた木魚とばったり遭遇した。さすがにそのときは木魚も驚いたらしい。慌てふためき、パクパクと金魚のようになった木魚を、副村さんは丁寧に落ち着け、自分のことを話し始めた。
意識を持ったみかんは、少なくとも副村さんの知る限り、副村さん以外にいないらしいこと、他のみかんと同様に食べられること、そして、副村さん自身も美味しく食べてもらいたいと思っているということを。

「知り合ってしまった以上、君を食べることはできないよ」木魚が言う。
「いえ、他のみかんと同じように、白いのをきれいに取って食べてください」
「いやいや、無理だよ。カナなら食べられる?」
「無理に決まってるでしょ」まだ嵐の中だ。
「そんなことおっしゃらないでください」副村さんの声は、明け方の空気みたいに透き通っている。
出口の見えない押し問答は、どのぐらい続いたのだろうか。徐々にアタシは落ち着きを取り戻し、嵐も止んで今や視界良好だ。アタシは、大事な友人に話すように、信念を持って副村さんに伝えた。
「副村さん、みかんとして食べてもらいたいという気持ち、正直全然分からない。だから、アタシたちが副村さんを食べられないという気持ちを、副村さんも理解できないかもしれない。それでもね、そういうもんだと思って諦めて。いつかお互いの気持ちを理解できる日がくるかもしれない。そんな日を楽しみにしてようよ」
「・・はい。わかりました」
そして、3人とも清々しい顔で笑った。

外は、夜が深くなるに連れて一段と冷え込み、空気の冷たさが、そのまま、しん、という音になったように静かだ。副村さんは、背中の部分にあたる皮を開き、羽のように広げている。木魚はさっきから口数が少ない。動きが止まっているのかと思って、時々確かめているけれど、動きは止まっていない。根拠があるわけではないけれど、もしかしたらもう、木魚が止まることはないのかもしれない。
「じゃあ、そろそろ行きます」
「うん、気をつけて」「またね」
動きを確かめるように小さく動かしていた羽を大きく動かすと、ばさり、と気持ちの良い音と立てて一気に空へと飛び立った。静寂を切り裂き、アタシ達の上で一度旋回すると、月に向かって加速し、やがて見えなくなった。
「これで良かったんだよね」
「もちろん」
そう言った木魚の声はとても優しく、その横顔は月明かりに照らされて、青白く輝いて見えた。

それからほどなくして、アタシと木魚は別れた。今となっては別れた原因を思い出せないけれど、よくある男女のすれ違いというやつで、副村さんが原因というわけではなかったと思う。
それでも、ひとの記憶というものは、つくづく全く当てにならないもので、木魚と思われる男の子がオレンジ色の羽のようなものを背負った女の子と歩いていたという目撃談を聞いたり、みかんの産地で木魚によく似た男の子を見かけたという話を聞いたりすると、あのとき見た木魚の横顔に、運命や決意を感じたような、真偽のほどが分からない記憶が蘇ってくる。
あの日、副村さんが出て行った後も、その後も聞きそびれてしまって、アタシの手の何が米倉涼子なのかは、結局今でも分からないままである。

-完-

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