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#41 美女と野獣はルッキズム批判たり得たか
「美女と野獣」という童話、ご存知かと思います。
あまりにも有名な童話なので、あまりにも色々な派生がありますが、ざっくりまとめればこんな話。
知ってる人は読み飛ばしてくれ。
あるところに商人の娘がいた。
娘はなんやかんやあって野獣の城で暮らすことになる。
野獣の城で彼女は丁重にもてなされたが、軟禁状態であった。
しかしある時、彼女に身内の危篤のしらせが入る。
これを聞き、家に行かせてくれと彼女が野獣に頼むと、必ず戻ってくることを条件に、一定期間の外出を許可される。
家に戻った彼女はなんやかんやあって野獣の指定した一定期間を超過してしまうが、そんな折、彼女は野獣が瀕死になる夢を見る。心配になった彼女は自分が野獣を愛していることに気付き、急いで城へ戻る。
城には瀕死の野獣がおり、彼の現状に彼女が涙すると野獣はイケメン王子になって、二人は結ばれましたとさ。
シナリオの表面構造としては、自分が罰を受けるための場所へ帰ってくる物語という共通点から、太宰治「走れメロス」に近いものを感じますね。
ただしメロスは自身の責任感で帰ったのに対して美女と野獣の彼女に関しては自分の中に芽生えた愛情に気がついたから、という動機の差はありますが。
さて、本題はこの作品が、ある種ルッキズム批判の作品であるように語られていることについて、です。
本作品を要約すれば、
娘は野獣の醜悪な容姿に惑わされず、彼の優しい心を愛した、その結果彼女は王子様と結ばれるというハッピーエンドに到達した。
というシナリオになるでしょう。
野獣の醜悪な容姿に囚われず、彼の優しい心を愛し抜いた彼女もまた、やはり優しい心の持ち主であり、その純愛への讃歌としてある種トロフィーのようにイケメン王子との結婚という幸せな結末が用意されています。
これはつまり、見た目に囚われるルッキズムへの批判であり、人間は中身で評価されなければならないというテーゼなのです。
ちょっと待って!!待て待て待て!!
危なかったです。納得してしまうところでした。
「美女と野獣」のルッキズムへの向き合い方を解釈するにあたって、看過できない問題がひとつあるはずです。
それがこれ。
王子様、めちゃくちゃイケメンやないか!!!!
ルッキズムに囚われなかった結果に待ち構えている幸せが「醜悪な野獣だと思っていたら実際はイケメン王子でした!」。
幸せの表現が金持ちイケメンの玉の輿。
ゴリゴリにルッキズムやないか。
ではやはり、この作品はルッキズムに囚われたルッキズム賛美の作品なのでしょうか? …………?
しかし視野を一つ外側に広げて、つまり王子との結婚を僻む彼女の姉妹や、さらにその作品を受け取る我々読者にまでレンズを広げてみたらどうでしょう。
野獣を愛した主人公には姉妹がいました。
そしてその姉妹は、主人公が王子と結婚することを大層悔しがります。
姉妹はあくまでも普通の人として描かれており、つまりは平均化された大衆としての役割を果たしています。
主人公が野獣に囚われていた時は、彼女を厄介払いできてせいせいしたぜ、くらいに思っていた彼女たちは、野獣がイケメン王子だと知るや否や、手のひらを返して悔しがるのです。
これは端からみてどうでしょうか。
大層滑稽に見えるのではありませんか?
そしてその滑稽さの正体は、我々が、本質を見ずにガワだけに囚われている彼女たちに感じる嫌悪や侮蔑なのです。
そして、さらに言えば、前述した幸せの形としてのイケメン王子との結婚。
これは作品を消費する側、つまり我々にとっても一番説得力のある幸せの形であり、だからこそこのエンドが用意されているとも考えられます。
やはりブサイク王子よりもイケメン王子と結婚するエンドの方が、消費側からすれば納得がいくし、すっきりした気持ちで鑑賞できるのです。
なぜか?
それは、我々もまたルッキズムに囚われた「主人公の姉妹」のマインドを持っているからにほかなりません。
そしてこの構造そのものがルッキズムに囚われた我々を批判しているのです。
今回は、ルッキズム批判としてしばしば評価される「美女と野獣」は、本当はルッキズム批判たり得ていないのではないか、という検討をしましたが、ここまで込みで「美女と野獣」を考えると、やはりこの作品はルッキズム批判を内包した作品であると評価できると思うのです。