水曜日式オフえっちレポの書き方
こんばんは、水曜日です。このような場所に上げるつもりはありませんでしたが、wordの文書をスマホで見るというのはかなりの労力を要する行為であるため、この場をお借りします。これなら読み返すのも苦ではないと思うので。
本noteは全く学術的要素を含みません。全てわたしの偏見であり、あくまでわたしがレポを書く際に気を付けていること、また以下の要素を取り入れればレポが少し書きやすく、読んでいて多少面白く感じてもらえるかもしれないと思ったことのみを記載しています。Fラン私文中国語学生だったので専門的なことは一切わかりません。つまりわたしの書き方を真似てわたし好みの文章を書け、という傲慢と横暴を書き連ねています。
本来ならばわたしなどがこのような文章を書けるような生き物ではないということは重々承知しています。地位も名声もない、インターネットの片隅で文章を書いては己の作文能力や語彙のなさに嘆くだけの地球外生命体でしかないわたしが、このような文章を書き残すことは全く身の程知らずでおこがましいことです。
それでも誰かが文章を書きたくなった際に助けになれたら、あなたがわたし好みの美味しい文章を、わたしに奉仕するためだけに書いてくれるなら。そんな気持ちで長々と書いていこうと思います。
はじめに
レポは自分と相手のためのものである。筆者はインターネット上に公開し小銭を稼ぐ手段としているが、本来ならばそのようなことをする必要はなく、あくまで後々の自分が読み返して興奮したり思い出に浸ったりするための日記及び相手へのラブレターなのである。
レポを読むときに知りたい情報はそこで何が起こったかの詳細ではなく、あなたの感情の変化、思考の内容、そしてあなた自身の感想である。
しかしそれを書かなかったからといって責められることはない。新鮮な食材を新鮮なうちに調理する、ただそれだけのことであり、回数を重ねる毎に自分にとって納得のいく出来栄えの料理が作れるようになっていくものである。
過去の拙さも、回数を重ねて多少上達していくことも、全てが美味しく大切な歴史の蓄積なのだ。
それに上手な文章などというものはこの世に存在しない。存在するのは読んでいて気持ちのいい、読みやすい文章か、自分の口には合わない文章のみである。
あなたは上手い文章を書こうとする必要はない。ただあなたの思う読みやすい文章を書いていただきたい。飢えた我々は、あなたが心を込めて作ってくれた料理なら、どんなものでも喜んで美味しくいただくつもりでいるのだから。
基礎編
基礎一:作文の基礎に則る
このように文章の最初は一字開ける。一字開けるだけで文章らしくなり、ぐっと読みやすくなる。もちろん「」が文頭に来る場合は下げる必要はない。三点リーダ(……)は偶数にし句点や読点を代わりに用いない。読みにくいから。
現代では常用外の漢字変換をしない、例えば「此れ(これ)」「何処(どこ)」等がそうだ。忘れがちだが「沢山」も読めない場合があるため、気付いたときにはひらがな表記にしよう。
漢字を多用したからといって読みやすくなることも、頭が良さそうに見えることもない。普段あなたが話す際のニュアンスを文章に込めよう。不要なひらがな表記も時には味や個性となる。わたしが「私」を「わたし」、「貴方」を「あなた」と書くと、何となくわたしが呼びかける時の声色が蘇ってくる気がするだろう。
教科書代わりに使える小説が一冊手元にあるといい。これは自分の好きな作家、谷崎潤一郎や夢野久作でもいいし、村上龍や若合春郁、岩井志麻子でもいい。とにかく自分の書きたい、または読みやすい文体だと思える作家の小説を一冊準備しよう。文章の書き方がわからなくなった際に開けば答えが載っている。
基礎二:一行開けは可能な限り多用しない
一行開けは場面の変化を明確に示したい場合に用いるものだが、一行書いては一行開けるという人が意外と多い。
密度の低い文章はそれだけで読む気を失くすのでやめてほしい。
数千字程度の文章で全て一行開けなどされていた日には発狂するしかない。
このような文章のことである。
全く場面が切り替わっていないのに一行開けるな。本当に読みにくい。
基礎三:改行は適宜行おう
改行は節度を守って適切に行おう。基礎二にて一行開けを多用するなと書いたが、このように改行が全くない文章もそれはそれで読みにくい。間を作ることで次の文章への期待が高まるのだ。改行を用いず息をつく間もないほど連続して読ませるのも文章のテクニックの一つではあるものの、金銭の絡まない文章の場合にはそのような小手先の技術を用いる必要はない。文章のまとまりを意識し、小さな塊をいくつか生み出そう。
しかし改行しすぎも読みにくい。
本来ならばまとまりを持っているはずの文章が、このようにばらけているからである。
これではハンバーグがただのひき肉炒めになっているようなものだ。
適切の基準は個人の裁量に依るので、わからなかったら訊こう。
わからないことを訊くのは恥ではない。
筆者もわからないことがあったら第三者に訊く。
筆者は文のまとまりにもよるが句点(。)を三〜四個打ったら改行ということにしている。勿論目安なので前述のように例外もある。自分で判断ができない場合はどうしても存在するので、他者に客観的に評価してもらおう。
基礎四:文体は何でもいい
本当に何でもいい。論文やレポートにおいては常体を用いることとなっているが、オフえっちのレポは教授に提出したり、試験に合格したりするためのものではない。
あなたが書きやすいと思えるなら常体でも敬体でも全く構わない。しかし文体の統一だけはしよう。その方が読みやすい。
基礎五:メモを残そう
忘れそうならメモを残そう。リアルタイムでのメモが許されているのならその場で書こう。
しかしあくまで重要なのは目の前で発生している事象、または目の前にいる相手なので、重要なシーンを見逃さないよう本文を書かずメモのみに留めておこう。
忘れてしまったことがあるならピロートークで感想を探るふりをして訊くのが一番スマートである。
とはいえ詳細が多少違ったところで誰も困りはしないし減点もされない(そもそも点数をつけるためのものではない)ので安心してほしい。
基礎六:情報の取捨選択をしよう
指の一本の動き、発した一言一句、全てを詳細に書き連ねる必要はない。印象に残った部分を抜き出し、それ以外の部分は軽く触れる程度に書けばいい。えすえむも文章も大事なのは緩急である。
その代わり印象に残った場面、自分の思考が変化した瞬間、感情が大きく揺さぶられた状況のことは可能な限り詳細に書こう。くどければ消せばいいが、足りない部分を補うのは少々困難だ。
基礎七:書き上がったら当事者に見せよう
インターネットに公開する場合は公開前に当事者に見せ、書いてほしくない箇所や事象について訊ねよう。何か言われたらその箇所は直ちに修正し、消した場面は自分の記憶にのみ残しておこう。公開用の検閲済み文書と自分用の文書をそれぞれ残しておくことも可である。
公開しない場合でも書けたら見せよう。自分のことを開示するのは非常に恥ずかしいものだが、誰も嘲笑ったり怒ったりしない。あなたと当事者にとってその羞恥は一過性のものであり、最後には喜びへと変化するのだ。
大抵の場合、自分のことやあなたのことを書いてもらえるのは非常に嬉しいものではないだろうか? それによってあなたが苦しんだりストレスを感じたりしないのなら見せよう。
しかしあまり長く置きすぎると恥ずかしくなって誰にも見せないことになってしまうので、見せると決めたら善は熱いうちが吉日である。覚悟を決めよう。
応用編
応用一:文章を修飾しよう
部屋に花を飾る。プレゼントを綺麗にラッピングする。爪に色を塗る。化粧をする。
装飾は人の心を豊かにする。文章の修飾もまた、より情報量が豊富で面白いと思わせる、つまり読者を喜ばせるものである。印象に残った背景情報は書いておくべきだ。空の色がいつもより鮮やかに見えたこと、普段なら何気ない会話として流れていくような言葉たちがいつまでも自分の中に留まっていたこと、繋いだ手の感触が何かに似ていたこと、相手の言葉に一喜一憂したこと。
マイナスかプラスかを問わず、誰かと一緒にいるときの風景や感情があなたの印象に残っているということは、それを知覚した瞬間にあなたの喜怒哀楽が日頃より強く揺さぶられた、ということの表れではないだろうか。レポを書かれる相手はそれが知りたいのである。積極的に書こう。
応用二:人物を説明する必要はない
例一:わたしの名前は水曜日、野生のサディストでマゾを五人飼っている、どこにでもいる普通の社会人。
例二:彼女は水曜日。もちろん本名などではなく、インターネット上で使用しているハンドルネームだ。不機嫌そうな無表情に眠そうな目はチベットスナギツネを彷彿とさせる。
筆者に言わせればこんな説明は読書慣れしていない人のための介護に過ぎない。普通に生活をしていてこんなことを考えるだろうか? いや、考えない。
レポは生身の人間がその場で感じたこと、考えていたことを時系列に沿って書くもので、一番最初からこのような外見描写を含む人物紹介を挟む必要はない。
最初からこういった描写がなければ、人物像を想像できずその後の展開についていけなくなる、などと宣う弱者はその場に置き去りにすればよろしい。レポの読者はただの傍観者、おこぼれにあずかる脇役でしかない。そのような弱音を吐けば自分に合わせてくれるだろうと考える甘やかされきった人間のために書いているのではない。
外見の描写はその人に注目したときにしよう。引きで見ている場合は詳細を記述する必要はない。最初に全て知ってしまってはつまらない。「白い肌に黒い爪が食い込んで綺麗だ」等、それまで一切出ていなかった情報が描写されることで初めて人物の詳細を知り、想像することによって時間差で興奮が得られる。
応用三:自分の話をしよう
例一:物心ついた頃にはえすえむに性的興奮を抱くようになっており、いつしか自分がサドの立場になり他者を痛めつけるという倒錯的な想像ばかりするようになっていたが、まさか本当にそうなるとは思っていなかった。
インターネット上では自分語りが忌避される傾向にあるが、レポはあなたの話をあなたが書くのだ。あなたの話をしよう。あなたの背景情報が入ることで感情移入をしたり、またあなたの感情の変化に対しより深い理解や共感が得られる場合がある。
自己の開示は恐ろしいことではないし、あなたのことを受け入れない人間などは視界に入らない限り存在しないも同然である。そもそもあなたのことを受け入れない人間に向けてレポを書くわけではない。あくまでオフえっちの相手に向けて書くのである。
少なからずコミュニケーションを取りオフえっちまでこぎつけレポを残そうと考えた瞬間、そこにはあなたのことを受け入れた人間がいる、その人に向けて文章を書いてもいいという環境が既に完成しているはずだ。肌を重ねて散々喘がされた(もしくは喘がせた)上で今更何を恥ずかしがることがあろうか。
オフえっちに至るまでの経緯、前日や当日の心境など、書けそうなことは全て挿入しよう。前戯のないセックスが楽しいわけがない。自分語りは前戯なのだ。
最後に
口頭では伝えられないこともレポの文章にしたためれば素直に書ける場合もある。
レポは自分のことを自分で書くが、同時にその文章は自分から独立しあなたの自我からは切り離されたものとなる。つまり文章への批判は文章に対してであり、あなた自身に対するものではない。
最初にも書いたが文章に上手い下手もないのだ。読みやすいか読みにくいか、という個人の独断や偏見、趣味嗜好に左右される非常に曖昧な評価基準しか存在しない。わたしの文章が世間で評価される場合はいつも佳作止まりだが、あなたはわたしの文章を絶賛してくれる、といった具合に。
そういった正解のないものを産み出すのは時に苦しい。絶対的な評価が存在しないから。あと普通に恥ずかしい。
全てのレポやこういった文章、というか創作物全般は等しくオナニーなのだ。公衆の面前でのオナニー。わたしなどは月に二回も全世界オナニー大公開羞恥プレイをしていることになる。最悪である。
最悪であるが、羞恥を耐え抜いているといつの間にか快楽へと変化している。見られるのは気持ちいい。例えそこに「見ました」という宣言がなくとも、黙って金銭を置いていかれるだけで充分嬉しい。珍しく感想がもらえた日にはスクショして保存している。
閲覧数が伸び、いいねを押してもらえたりブックマークに保存してもらえたり、そうしてわたしは匿名の有象無象たちと文章を通じてコミュニケーションを取る。例えそれが大多数の人間にとってインターネットの巡回でたまたま出会いそして過ぎ去っていくだけの何の印象にも残らない文字列の集合であったとしても、誰かにとっては明日明後日も思い出すような大切な文章や記憶になることもある。
わたしが人生で学び(今も日々学習中ではあるが)苦しみながら必死で育てた能力が誰かを喜ばせ、無味乾燥な日常に少しでも感情の彩りを添え、時々は失った人間の記憶や二度と手に入らない日々への渇望に苦しませ、もしくは安堵と快楽の砂糖漬けにすることができる。何が嬉しくないだろうか!
人間、文章を書こう。大切な記憶を、大事な思い出を、忘れてはいけない出来事を、あなたの空想や情熱、興奮を書き残そう。そうした文章を通して誰かを愛そう。
義務教育を修了した脳味噌があるのなら、キーボードを叩いたりフリックで入力ができたりする指が一本でもあるのなら、書こう。今どきは音声入力の精度もかなり高いので、書くことが難しいなら話そう。せっかく文章を公開する媒体で出会ったのだから、理性と長文の生き物らしく文章で性行為をしよう。ラブレターを書こう。
他者のために長文をしたためることが愛であると誤認した地球外生命体より、まだ文章を書く習慣がない人間のあなたに愛を込めて。
嫌いじゃないですよ、あなたみたいなマゾ。