「脆弱な資本主義」と「異形の社民主義」 日本社会の不幸な融合|【特集】破裂寸前の国家財政 それでもバラマキ続けるのか[PART2・Column]
日本の借金膨張が止まらない。世界一の「債務大国」であるにもかかわらず、新型コロナ対策を理由にした国債発行、予算増額はとどまるところを知らない。だが、際限なく天から降ってくるお金は、日本企業や国民一人ひとりが本来持つ自立の精神を奪い、思考停止へと誘う。このまま突き進めば、将来どのような危機が起こりうるのか。その未来を避ける方策とは。〝打ち出の小槌〟など、現実の世界には存在しない。
財政問題は日本の構造的課題を映し出している。巨額の財政赤字を生み出さざるを得ない日本社会の土壌の正体とは?
バブル崩壊や人口減少の中で、家計も企業も政府(政治)も、リスクに怯えるように安全運転に徹している。「挑戦」よりも「守り」に努め、不確実性やリスクに臨機に対処するよりも動かないでリスクを避ける。ミクロの善意が「合成の誤謬」となって縮小均衡を生み、資本主義のイノベーティブな駆動力が十分発揮されずに生産性が伸び悩む。
もちろん安全安心を望むことは自然なことだが、これが本当に成熟した日本社会の求める姿なのだろうか。運動会の徒競走で全員一緒にゴールさせた話が想起されるが、今こだわるべきはむしろ子供たち全員の足が遅くなっていることではないのか。
好対照なのがタンザニアの資本主義だ(小川さやか著『「その日暮らし」の人類学』、光文社新書参照)。彼の地では、不確実性が日々国民に降りかかる。政府には期待できず、頼れるは自分自身と親族・知人のネットワークのみ。リスクを分散し、常に少しでも稼げる仕事を探して挑戦する。失敗したら家族や知人に助けを求め、再起の機会を窺う。相互で情報や資金を融通し合って生き抜く姿はダイナミックだ。
この例は極端だろうか。確かに先進国では社会制度が整備され、法人化とともに資本主義が高度化している。だが、成長の原動力が自由とサーチとリスクテイクにある点は共通だ。一方、日本ではリスクを取ること自体がネガティブに捉えられる。起業やスタートアップを見ても、一部に萌芽は見られるが、欧米や中国、インドとは比較にならない。
かつて江戸時代の鎖国日本は数学ブームに沸き、和算も天文観察もからくりも最先端の独創性があったと言う(NHK『江戸の天才たち』、2021年11月21日放送)。太平の世は同じだが、今は何が違うのか。
もちろん企業も金融機関も利益を求めて活動している。ただ、「失敗」を恐れ、手堅い経営や与信態度にならざるを得ない。組織や政府に保障を求め、制度や規制で現状を縛る。リスクの大きい投資は控え、大胆な新機軸の探求、生産性向上は限られる。
国民の値上げアレルギーが強いので、利益の捻出は、賃金抑制や下請け関係のコストカットに集中する。中小企業には、本来大企業では困難なトライ&エラーを駆使した新事業開拓が期待されるが、逆に資金や経営資源が限られて、労賃の切り詰めや事業主の献身で精一杯の会社も多い。
グローバル資本主義の世界では、資本や労働移動が加速している。そこには副作用もあるが、日本は良くも悪くもガラパゴスだ。海外で儲けた資金も海外で再投資され、内外の市場が分断されている。内向き思考で、世界の多様性もどこまで吸収できているか。
家計に目を転じると、長期にわたり所得が停滞している。低所得ゆえ低消費。将来不安を見越して貯蓄に励むが、株式や債券への投資は控え、多くを現預金で保有する。これでは運用益も得られない。家計がリスクを避ける分、起業家が一身にリスクを背負い込む。
金融機関は、不良債権を恐れて融資を増やせない。特に、担保がない新サービスや情報産業などに十分対応できていない。低所得、低消費、低投資、高貯蓄の中で溜まった現預金は行き場がなく、そこで「政府が使え!」とばかりに国債の大量発行を支えている。
股裂き財政と現預金滞留の
「不幸な合致」
政府に対する国民感情も複雑だ。
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