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五・一五事件から90年 「若者の反乱」から今考えること|【WEDGE OPINION】

広がる経済格差や国民不在の政党政治、不安定化する国際環境──。政党政治を斃たおした五・一五事件当時と類似する現代を生きるわれわれはこの事件から何を学ぶべきか。

文・小山俊樹(Toshiki Koyama)
帝京大学文学部 教授
1976年広島県生まれ。99年京都大学文学部(日本史学専攻)卒。2007年京都大学大学院人間・環境学研究科博士後期課程修了。博士(人間・環境学)。17年より帝京大学文学部史学科教授。著書に『憲政常道と政党政治─近代日本二大政党制の構想と挫折』(思文閣出版)、『評伝 森恪─日中対立の焦点』(ウェッジ)など多数。

 1932年5月15日、午後5時30分頃。4人の海軍青年将校と5人の陸軍士官学校の候補生、計9人が首相官邸を襲撃した。そして「話せばわかる」と応じた、犬養毅首相に「問答無用、撃て」の号令のもと、二発の銃弾が浴びせられた。いわゆる「五・一五事件」である。

五・一五事件・直後の首相官邸の日本間の玄関 (MAINICHINEWSPAPER/AFLO)

 年若いエリート軍人が、老首相を襲った事実は、当時においても衝撃的であった。だがそれだけでは、事件の本質を見誤ることになる。このとき首相官邸だけでなく、警視庁、日本銀行、政党本部など、政財界の中枢組織に爆弾が投げ込まれている。事件の首謀者たちには、国家を支配する特権階級全体の排除をめざす「昭和維新」の思想が根づいていたのである。

 さらに軍人たちの同志である農村青年らが、東京・埼玉の変電所を襲い「帝都暗黒化」を図った。彼らの計画は、日本中の農村が深刻な不況に沈む中、享楽的なネオンを煌めかせる大都市への拒否通告でもあった。

五・一五事件の襲撃経路図

① 三上卓海軍中尉率いる第一班9人は靖国神社に集合後、タクシーで首相官邸に向かい、犬養毅首相を射殺。その後「警察と戦って討ち死にしよう」と、警視庁へ向かったが、最初に到着した三上らは何の警戒態勢もとられていないことに拍子抜けして、自首するために憲兵隊本部に出頭した。遅れて警視庁に到着した4人も憲兵隊本部に向かったが、物足りなさを感じて日銀に手榴弾を投げ込み、再び憲兵隊本部に戻った。
② 古賀清志海軍中尉率いる第二班5人は、泉岳寺に集合後タクシーで、牧野伸顕内大臣を襲撃すべく官邸に向かうも、手榴弾を投げ込むだけで暗殺を放棄して警視庁に向かい、その後憲兵隊本部に出頭した。
③ 中村義雄海軍中尉率いる第三班4人は、新橋駅に集合後タクシーで立憲政友会本部に行って手榴弾を投げ込み、警視庁に向かい、その後、憲兵隊本部に出頭した。
(THE ASAHI SHIMBUN COMPANY)

 事件の全体をみれば、政党と軍人の対立という一側面だけでは説明できないことが多い。その背景にあった、昭和戦前当時の深刻な格差社会の存在や、政財官エリートたちの思惑、閉塞感に直面する若者たちの焦燥などに迫る必要があるだろう。今年は事件から90年の節目にあたる。現代のわれわれは事件から何を学べるかを考えたい。

 事件の発生から約1年後の33年5月、秘されていた事件の概要が公表された。そして同年7月に陸海軍の軍法会議が開廷する。興味深いのは、殺害された犬養首相への同情論が強かった世論の動向が、公判の開始以後に急転回したことである。被告である軍人たちの助命を嘆願する運動が全国的に広がり、同年9月末までに70万筆を超える署名が提出された。

 世論が沸いた理由の一つは、被告たちの動機が法廷で明らかにされたことによる。彼らは口々に「犬養閣下には何の怨みもない」と言明した。そして農村の深刻な窮乏と荒廃を陳述し、政治の腐敗を徹底して糾弾した。

 国民の反響は大きかった。裁判を担当した検察官に届いたある女性工員の手紙を紹介しよう。それまで首相の襲撃に反感を抱いていた彼女は、若い被告らの「社会に対する立派なお考え」をニュースで聞いて、それまでの誤解を「まことに恥ずかしく」感じたという。そして凶作地出身の身の上を語り「私共世の中から捨てられた様な貧乏人達の為にどれだけ頼母しいお働きであったか」との感慨の念を、わずかばかりの金銭に添えて書き送った。

 人々の不満や絶望の背景には、当時の日本経済の深刻な状況があった。20年に起きた第一次世界大戦後の恐慌以来、日本は……

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