【雑話】バウンダリー(自他境界線)から考える、過ごしやすいTwitter・SNSの使い方
インターネット今昔と、"おすすめタブ"への辟易
昔のインターネットは、とかく自分の嗜好や属性について言語化できていないと、うまく使えない嫌いがとてもあった気がする。
検索エンジンもまだ未熟で、正しい言葉を知り、また使えないと的外れな情報にしかアクセスできない不便さがあった。時代によってはカテゴリを掘り下げないとホームページが見つからない「ディレクトリ型」検索エンジンが使われていた頃もあった。情報発信をする側に立とうとする時も、自分の言葉と技術を駆使して自分のホームページを立ち上げなければ何もままならなかった。
そう考えると、今のインターネットと比べて、バウンダリー(自他境界線)というものをとても明確に定めながら、各々がコンピュータを用いていたように思う。
自分の好きな物や伝えたいことをたっぷりと書き込んだ自分だけのホームページ。そうしたものを誰かに見てもらったり、自分もまた誰かの好きが詰まったホームページを巡ったり。その気になれば作者さんとやり取りし合って仲良くなったり、時には同盟バナーを張って、仲良し度合いや自分の嗜好をわかりやすくアピールしたり…
そんな風に、好きなもの・嫌いなもの・するべきこと・しなくていいことを自覚しながら情報を扱っていたからこそ『荒らしに反応する人もまた荒らし。変な人はスルーすること。』と言った形のネットマナーが共通認識になっていたのだろうと思う。
今のインターネット… ことさら、Twitterにおいては特にそうではなくなっている気がする。
常にAIのアルゴリズムが自分やフォロワーの動向を監視し「こんな人をフォローしませんか?」「貴方と似たような思考の人はこんなことを書いています!」とずけずけとレコメンドをしてくる。それが自分に合い、良い気持ちになる情報ばかりだといいのだが、わたしが見る限りはそうではない事の方が多い気がする。
インプレッションをよく稼ぐ情報は、得てしてこちらの感情に強く訴えかけるものになりやすい。それはしばしば誰か・あるいは何かへの『怒り』『悲しみ』『愚痴』だったり、人生こうして生きてる人は無駄!この方が効率がいい!金も稼げる!勝ち組になろう!と言ったような『人生の最適解』だったり、何かに怒る人に怒る人だったり、何かに怒る人に怒る人に怒る人だったりする。
広告においても「これホントに実装されてるゲームなの?やり口汚いなぁ…」とつい言いたくなる詐欺ゲーム広告だったり、景品表示法スレスレの通販広告だったりが下手をすると食い込んで、こちらの思考リソースにスリップダメージをじわじわと与えてくる。そんな情報の洪水に、気を抜くとわたしたちはよく溺れそうになってしまう。
さながら、頭の中に"AI"という名の別人格が住み着いて。自分本来の人格に対し、哀れみを乞う言葉や、誰の仲間になるのかを問い正す言葉や、自分の生きる時間の価値を糾弾する言葉を 投げかけられ続けるかのように。
そうした情報の洪水に疲れた時。ふと、たまに自分自身も同じように。短くて楽で単純で粗雑で乱暴な言葉で。同じようにあてのない怒りや悲しみや愚痴を表現したくなったり「なんでこんなに怒っている人ばかりなんだろう。時間の無駄じゃないのかな」なんて、どことも分からない場所に向かって物申したくなってしまう時がある。
そんな時ほど、昔のインターネットにあったバウンダリーを思い出したい。
バウンダリー(自他境界線)について
今の時代のインターネットにおいては、(特に自分で拒否設定をしない限りは)サイトを横断した自分のアクティビティがブラウザに記憶され、コンテンツを提供するあらゆるWebサービスで参照される。
TwitterなどのSNSにとどまらず。Youtubeなどの動画配信サービスにおいても、大体の場合は同じように「貴方の属性だとこういうの好きでしょ?」と 上げ然据え膳に世の中に存在する情報をレコメンドしてくれる。
そう考えると、今のインターネットサーフィンは。自分でテレビのリモコンを持ちながら楽しんでいるようで、そんな状態ですらないとも言えるのだ。自分が声高に境界線を引かない限りは。まだテレビが白黒だった頃の昭和の家庭のように。資本のかかったWebサービスという大黒柱の存在に、テレビ(Webコンテンツ)のチャンネル選択権が、ぐっと握られてしまう。
そういった意味で、我々のバウンダリーは常に揺らぎやすい状態にあると。きっと言っていい。
はっきりしたバウンダリーを今一度見直しながら、快適にインターネットを使っていくために。
そんなレコメンドの数々や、心に食い込みやすい怒り・悲しみの情報にやられそうになった時は。下記のように行動していくと良いとされている。
(参考: はっきりした自他境界(バウンダリー)を作るには )
自分がどんな情報に快適・不快を感じるのかを書き出す(≒ジャーナリング)
刺激の強い情報源から距離を置く(ミュート・興味関心の明示的な設定)
自分の書く情報の主語を明確にする。
「私はこう思った。」「あの時こう感じた。だから明日はこうしたい。」など
過度に怒る外の人からの評判を気にしすぎない(噛みつくこと自体を面白がる変な人が一定数いる一方で、会う確率はとても低いため)
SNSに限らない、もっと本質的な自分のバウンダリーに迫る解説・心理療法の話としては、この漫画ツリーの話なんかもいいなと思ったりする。
いわゆる「SNS疲れ」の本質は、ここ最近の時代は人との触れ合いでの消耗というより、下手をするとこちらのバウンダリーを侵してくる、AIのレコメンドや、レコメンドで流れてくる情報がもたらす怒り・悲しみの圧力のやり過ごし疲れ として語る方が近い気がしている。
その果てに、元々聡明だったり感受性が豊かだったりする人が。インターネットの毒にあてられて、自らも毒々しくなっていく様子もたまに見かけたりするのは、どうにも悲しくてたまらない。
技術が発展し、他人の動向や人生・技術や表現における最適解となる情報、ポジティブな感情やネガティブな感情…
一昔前は現実の身体が動く範囲でしか手に入らなかったそんなものが、全世界を対象に洪水のようにして手に入るようになった今だからこそ。昔持っていたはずの、そんな『自分』の姿や器を。思い出しておきたい。
わたし自身、Twitterのおすすめ欄に溢れる怒りにげんなりすることがしばしばあるから、その気持ちを忘れないための覚書。
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