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男女の友情は幻想か、現実か
友情とは何かと問われると、私たちは自然と心地よい距離感を思い浮かべる。互いを尊重し合い、理解し、助け合うもの。そこに性別の壁は存在しないと、そう信じている人も多いだろう。
しかし、私はどうしてもそこに違和感を覚える。なぜなら、男女という属性が組み合わさった瞬間、友情は微妙な歪みを孕んでしまうからだ。
例えば、ある日突然、幼馴染の男友達からこんな言葉をかけられたとしよう。
「お前といると落ち着くけど、恋愛感情じゃないから安心してな。」
私たちは笑い合い、その場では冗談として流した。しかし、言葉には一度発された瞬間から、見えない棘が潜んでいることがある。その棘は時間が経つごとに痛みを増し、関係性の中心にじわじわと影を落とし始めるのだ。
友情を築くために「恋愛感情はない」という明確な線引きが必要になるのはなぜだろう?まるで友情がその微妙な均衡の上に成り立っているかのように。私は思う。
それは、友情のふりをした未完成の感情がそこに潜んでいるからではないだろうか。
恋か友情か、その狭間
男女の関係において、友情を育てるためには「性」の存在を無視しなければならない。私たちは無意識のうちに、異性の容姿、しぐさ、声色といった要素を感じ取り、その中から何かしらの魅力を見出している。しかし、それを意識しないふりをしながら友情を築こうとするのは、あまりにも不自然なことだ。
ある男性の友人が言ったことがある。
「女友達は大切だけど、やっぱり彼氏ができると距離を置いてしまうんよなぁ。」
その言葉を聞いて、私は胸の奥に小さな違和感を覚えた。その理由は明確だった。真に友情を貫くのならば、相手に恋人ができたとしても、変わらず信頼を寄せ続けるはずではないのか?しかし実際は、友情という建物は案外もろく、ひとたび恋愛という要素が入り込むと、簡単に崩れ落ちる。
この話をしたとき、別の友人は少し笑いながら言った。
「だって、男女の間には感情の火種が潜むんだもの。」
その言葉を聞いたとき、私は思った。友情が燃え尽きてしまうのは、その火種がいつか恋という火に変わる危険性を孕んでいるからなのだと。
心の重なりとすれ違い
仮に「異性としての魅力」を一切排除して、純粋な友情を築くことができたとしよう。しかし、それは本当に友情なのだろうか?友情とは、互いの心が通じ合うことで生まれるもの。
しかし、通じ合う過程で、私たちの心は無意識に相手を「異性」として見てしまう。それは仕方のないことだ。
友情を語る中で、「異性である」という事実を完全に忘れることはできない。忘れる必要がある時点で、すでに関係は不自然なものになっている。
無理にその事実を無視して築いた友情は、何かを恐れるあまり、本当の意味での「心の一致」にはたどり着けないのではないだろうか。
次第に変わる景色
男女の友情は「成り立たない」と言い切ることは、多くの人に反感を与えるだろう。しかし、私はむしろ問いかけたいのだ。
「成り立たせるために、私たちは何を押し殺しているのか」
と。
友情は、ただありのままでいられることが美徳であり、心の安らぎであるべきだ。
しかし、異性との間では、少しずつ立場や距離、恋愛感情の影が忍び寄り、それを突き詰めていくと友情の形は簡単に崩れてしまう。
「結局のところ、男女の友情は幻想ではないか?」
この問いの答えは一つではないだろう。ただ、私はいつも心のどこかでその問いを抱きながら思う。二つの心の距離を計りかねる瞬間、友情という船は迷走を始める。そしていつか、嵐の中に飲み込まれてしまうのだ、と。
私たちは、友情のふりをした未完成の感情とどう向き合うべきなのか
その答えは、まだ見つからないままである。
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