あなたの推し馬は誰ですか?後編
後編です。本記事はSEOとかガン無視です。
スペシャルウィーク 武豊の夢を掴んだ日本総大将
1995年と聞くと、阪神淡路大震災や地下鉄サリン事件などで、物騒で暗い年だというネガティブなイメージを持つことが多いと思います。
俺は、そんな1995年生まれであり、小学校から高校まで12年間まるまる「ゆとり教育」をフルに受けた世代です。更に学校を卒業する時期に同時多発テロ、リーマンショック、東日本大震災、消費税が8%に増税などが起きてしまうことから、呪われた世代だと言われています。
ですが、競馬界としては1995年は大変おめでたい年でした。
まず、日本を代表する天才・武豊騎手が結婚をした年でもあります。
また、1995年生まれの名馬は、競馬史の中でも平均レベルが高く、名馬たちが鎬を削ったことから「黄金世代」「最強世代」と言われています。
スペシャルウィークは、そんな黄金世代を代表する1頭でした。
生まれてすぐに母親を亡くし、人間に育てられた不遇な生い立ちですが、優しい性格だったといいます。
武豊騎手と98年の日本ダービーに出走しました。
武豊騎手は、当時29歳になる年。スーパークリークを原点に、数々のG1を勝利し、既に天才と呼ばれた若者でした。
しかし、唯一勝てなかったのが日本ダービーでした。
子どもの頃からの望み焦がれた夢にも関わらず。
スペシャルウィークは単勝2.0倍の一番人気。
同期には皐月賞を勝ったセイウンスカイ、超一流の血統を持つキングヘイローなどライバルも強豪でしたが、ついにダービーを勝てる時が来ました。
実況「あっという間に!並ばない!並ばない!!」
実況「夢を掴んだ武豊!!!ついに夢を掴みました武豊とスペシャルウィーク!最後まで残っていた夢、日本ダービー制覇!!」
沈着冷静なイメージの強い武豊騎手ですが、スペシャルウィークの体(人間でいう首か肩の位置)をポンポンと叩いて労ったあと、珍しく大きくガッツポーズをしました。
どれだけダービーが騎手にとって特別なのか、子どもの頃からの夢が叶うのがどれだけ嬉しいことかが伝わります。
その後のレースでも安定した強さを見せつけ、素晴らしいライバルたちとの切磋琢磨は続きました。
主人公らしい風格は人気を集め、皇帝・シンボリルドルフでも果たせなかった天皇賞春・秋を連覇しました。
実はスペシャルウィークが勝った年の前年、武豊騎手は、とある逃げ馬で天皇賞・秋に出走していました。あのディープインパクトにも勝てるというほどの稀代の逃げ馬でしたが、レース中に故障してしまい・・・。
1年前の無念を晴らす、そんな結果となりました。
そしてジャパンカップ。
世界の強豪馬を迎え撃つ、日本国民の期待を背負ったGⅠレースです。
ですが、当時はまだまだ国内の馬が弱く、勝利したのはわずか数頭でした。
日本馬のエース「日本総大将」として、同期のライバル・エルコンドルパサーを凱旋門賞で破ったフランス最強馬・モンジューを撃破。
実況「先頭は13番スペシャルウィーク!やはり日本総大将!!」
ジャパンカップに勝つことも,武豊騎手の子どもの頃からの夢でした。
黄金世代の1頭として、素晴らしいライバルたちと戦いながら、王道路線を真っ直ぐ突き進んだ強くて優しい主人公でした。
武豊騎手の夢を2つ叶えた日本総大将。
彼を知って、1995年生まれがむしろ誇りになりました。
テイエムオペラオー 世紀末覇王でしたが・・・ウッ!
黄金世代の名馬たちに世代交代を告げたのが、テイエムオペラオー率いる1996年生まれの世紀末世代。
オペラオーは獲得賞金が極めて高く、当時の賞金額で合計18億円ほど。
現在の賞金額に換算すれば、もっと跳ね上がります。
クラシックは皐月賞のみですが、GⅠを7勝。
そして、1年間無敗(8連勝、うちGⅠを5勝)という現在でも破られておらず、誰も成し遂げていない偉業を誇っています。
2000年・有馬記念。
1年間全勝が懸かったレースでもありましたが、勝ち続けていたことで、全ての馬・騎手を敵に回してしまいました。
「もう勝たせないぞ、俺が勝てなくてもいい、誰でもいいからオペラオーにだけは勝たせるな。」
と言わんばかりの闘志を燃やされてしまい、最終直線では前を塞がれてしまうという妨害を受けます。
実況「テイエムは来ないのか!?残り310mしかありません!」
もうダメか・・・と思ったその瞬間。
僅かな隙間を縫って、オペラオーが前に出ました。
実況「テイエム来た!!テイエム来た!!メイショウドトウと、テイエムか、わずかにテイエムかー!?…………凄く苦しい競馬ですが・・・
ウッ!
僅かに抜けた感じが致しましたが・・・」
なぜか「ウッ」という謎の実況をされ、ハッキリと聞こえてしまったことをネタにされがちなものの、いつも自分の2着として食い下がってきたメイショウドトウと並んでゴール、僅差で差し切り、勝利しました。
引退式。
「オペラオーに認められるような、一流の騎手になります。」
と誓ったのは相棒の、若き日の和田竜二騎手。
オペラオー以外の馬でもGⅠを勝ってみせるという誓いを立てるのでした。当時は若いこともあり、馬の力で勝っているだけと厳しい声を受けることもありました。
しかし、オペラオーで天皇賞春を勝って以来の実に17年間、GⅠを勝てずにいました。オペラオーに会いに行くことができないまま、2018年5月、オペラオーはこの世を去りました。
その直後の宝塚記念。
ミッキーロケットという7番人気の馬で勝利、17年ぶりにGⅠを優勝。
ゴール直後、ゴーグルを外して涙を拭く和田騎手。
「オペラオーが後押ししてくれたと思います。やっと勝てたからオペラオーに報告しに行きたかったけど・・・胸を張っていきたいと思います。」
かつて相棒の背中を天国から後押ししたテイエムオペラオー。きっと天国で競馬しても、ずっと勝ち続けているのでしょう。
ナイスネイチャ 3着のスペシャリスト
GⅠ未勝利ながらも、人々に愛された馬でした。
有馬記念を3年連続で3着、生涯成績に「3着」が多かったナイスネイチャ。GIを勝つことだけがすべてではないという競馬の新しい楽しみ方を教えてくれたのがこのナイスネイチャです。
競馬は5着までは賞金が貰えます。
3着といえども、有馬記念という大舞台で3着を3回なので、それなりの金額を稼ぎますので、競馬関係者や複勝馬券を勝った人には、「まぁ、よく頑張ってくれている」と一定の評価を得ていたナイスネイチャ。
歴代の三冠馬やダービー馬、顕彰馬、年度代表馬などに比べたらともかくとして、競走馬全体で見れば重賞を何個か勝利し、負けても一定額は稼いでくる、GIでも善戦するナイスネイチャは、もう充分すぎるほどに強い馬なのです。
獲得賞金は、6億円以上になります。
この金額はなんと、シンボリルドルフの息子にして、同期では最高金額を誇るトウカイテイオーとほぼ同額でした。
アルバイトを複数掛け持ちして、並みの正社員より稼ぐ頑張り屋の人みたいですね。
そしてナイスネイチャを語る上で欠かせないのが、厩務員の馬場さん。
実はワガママで手が着けられないことも多かったナイスネイチャ。そんなネイチャの一挙手一投足を受け入れ、恋人のように愛情を注ぎ込んで接し続けた厩務員だったといいます。
厩務員との絆は、極めてヤンチャだけど厩務員には懐いていた、あのゴールドシップに負けないくらいのものがありました。
残念ながら馬場さんは若くして帰らぬ人となりました。
再会をずっと待ち続け、彼の分まで生きようと35歳と馬にしては最高記録レベルで長生きしていました。募金やクラウドファンディングなどで集めたお金は莫大なもので、暖かい支援を受けて余生を過ごしていました。
天国では、馬場さんにようやく会えただろうと祈るばかりです。
ウオッカ&ダイワスカーレット 大接戦ドゴーン
ウオッカは64年ぶりに日本ダービーを勝った牝馬。
ダイワスカーレットは37年ぶりに有馬記念を勝った牝馬。
女性ファンの憧れのような馬です。
ディープインパクトに近い世代ということもあり、ディープが巻き起こした競馬ブームにより、競馬が日本国民に広く、身近に親しまれるようになった時期に活躍したことで、人気と注目を集めました。
あのダンスでアイドルになった井森美幸さんも大好きな馬です。
この2頭はとにかくライバル同士。
5つのレースで張り合い、最終決戦となった天皇賞秋では、わずか2cmの僅差でした。
実況「外からダービー馬ウオッカ!坂を上る!ウオッカか!内からもう1度ダイワスカーレットが差し返す!これは大接戦!!
大接戦ドゴーン!!!!」
「大接戦のゴール」
「大接戦でゴール」
どちらかが正しいのかだと思われますが、興奮のあまり「大接戦ドゴーン!!!」と聞こえてしまうほどの、大混戦のレースでした。
僅差で勝利したのはウオッカ。
写真判定では、素人ではどう見てもダイワスカーレットの方が勝ってそうな気もしますが・・・。
奇しくも、この日の天皇賞・秋は「沈黙の日曜日」と呼ばれた1998年の天皇賞・秋の事故から、ちょうど10年の節目となるレースでした。レース中に故障し、その日の夜には星になった稀代の逃げ馬がいたのです・・・。
そんな彼に捧げる素晴らしいレースだったのです…
…
…
あなたの夢は誰ですか?
…私の夢はサイレンススズカです。
サイレンススズカ どこまでも先頭を…
競馬ファンにとっては、名前を聞いただけで涙が出てしまうほどの特別な馬です。これまでの記事の中で「1998年の天皇賞・秋で故障し、星になった稀代の逃げ馬」というのは、彼のことを指しています。
「三冠馬ナリタブライアンが相手でも逃げ切れる」
「ディープインパクトに挑むなら誰に乗る?・・・・サイレンススズカかなぁ、お互いにとって一番苦手なタイプだと思う」
「理想の逃げ馬、もう2度と現れないかも。もう少しだけ一緒に走りたかったなぁ・・・」
武豊騎手にこのように極めて高く評価されていました。
金鯱賞を10馬身以上の大差、気持ちよく圧勝したこともありました。
毎日王冠では、グラスワンダーとエルコンドルパサーに完勝。後にジャパンカップを勝利した顕彰馬・エルコンドルパサーに、まるで手も足も出させず、国内で唯一黒星をつけた馬となりました。
そして最期の戦いとなった天皇賞・秋。
1998年11月1日。
1枠1番、単勝1.2倍の1番人気。
いつものようにハイペース、1000m通過タイムが57.4秒。
最高に調子が良い、これなら勝てる!と第四コーナーを回った瞬間に騎手にとって、馬にとって最悪の事態が起きました。
実況「あぁちょっと!サイレンススズカに故障発生!なんということだ、レースを終えたサイレンススズカと武豊!沈黙の日曜日!」
原因不明の骨折を起こしたサイレンススズカ。
最後の力を振り絞って、武豊騎手を安全な場所まで運んでから倒れました。
サイレンススズカ「豊さん大丈夫?私はここまでだけど、これからも頑張って。じゃあね。」
もう治せない、処置をしたとしても辛いリハビリと痛みが続くだけ(予後不良)であるとし、その夜に星にさせることを決断したのです。
その夜は泥酔し、泣き崩れた武豊。
今でも重すぎて、とても軽々しく口に出せないほどの心の傷になっているといいます。
勝ったGⅠは宝塚記念のみ。
翌年1999年の宝塚記念は、黄金世代2頭が出走することに。言葉選びに定評のあるアナウンサーは自身の本命馬を「夢」と表現して、こう言いました。
「今年もあなたの、私の夢が走ります。
私の夢はサイレンススズカです。
夢叶わぬとはいえ、もう1度この舞台で、ダービー馬(スペシャルウィーク)やグランプリホース(グラスワンダー)と走って欲しかった!!!」
と追悼の意を込め、こう実況されました。
実際、あの日無事に走り続けていれば、翌年の宝塚記念も勝ち、2連覇をしていたかもしれません。
もっとたくさんのレースを勝ったり、大逃げの馬を育てようという考え方が広まったり、日本競馬は今とは違う道を選んだかもしれません。
競馬ファン・関係者に大きな夢を遺し、星になった、悲劇的な最期が語り継がれる伝説の逃げ馬です。
いつか天国で、時代を超えて名馬が集まってレースをするのだとしたら、あの日と同じ1枠1番で出走しているでしょう。
全員から逃げ切って、あの日やるはずだった圧勝劇を見てみたいです。
まとめ
いかがだったでしょうか。
知ってるよそれくらい、メジャーな馬ばっかりじゃないかというような拙い内容だったと思いますが、正直○○競馬場がどうとか、調教師が誰で、両親の血統はどうとか言われても、わかんないと思います。
俺も正直、よく分かりません。
最近の馬で好きなのはドウデュースとパンサラッサです。
実況「武豊の思いが、ドウデュースに伝わった!ダービー6勝目!」
実況「復活を遂げたダービー馬、ドウデュース!千両役者ここにあり!武豊、有馬4勝!」
武豊「ドウデュースも、私も、帰ってきました!メリークリスマス!」
2023年の有馬記念は素晴らしかったですね。
実況やCMの語彙力、表現力は勉強になります。
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