★終戦記念日と、あの日のメダイ。
8月15日、そうか終戦記念日か、76回目なのか、とニュースをみて気づきました。
この日、大体いつも思い浮かべるのが4歳のときの記憶です。これが私の最もふるい記憶だと思います。
夏も終わる頃、私は2歳年下の妹と、とある児童養護施設に入りました。母は妊娠しており、私にとって2人目の妹が生まれるためでした。当時父には夜勤があり、どうしても保育園だけでは面倒をみきれなかったのです。
母は北海道から大分県へ嫁ぎましたが、その頃母の姉(私にとって伯母)も妊娠しており、初産となるため祖母は道内の伯母の家にいました。
父方の祖父母はすでに他界していましたが、父の姉(こちらも私にとって伯母)らは何人もおり、面倒をみてもらうことはできたのですが、私の母は父の家族に私と妹を預けることを望まなかったそうです。母には母の思いがあったのでしょう。
私と妹は、児童養護施設に着いたとき、施設内の砂場で遊ばされていた記憶があります。ところが、夕方近くになって、連れて来てくれた両親がいなくなっていたことにようやく気づきました。
4歳の私もですが、わずか2歳の妹などどのような気持ちだったでしょう。そのときの絶望感は筆舌に尽くしがたいものです。
2人でずっと泣いていました。面倒をみる職員らは、相当手を焼いたと思います。妹のほうがとても泣くので、やがて私は泣くのをやめ、いつも妹の手を握って過ごすようになりました。
私の脳裏に残っている暗い記憶は、風呂場で頭から爪先まで一気に泡をつけられ、そのまま湯船から洗面器で取り出した湯を、頭の天辺からざぶざぶと浴びせられたことでした。当然ながら小さな2歳の妹もです。文字どおり〈芋洗い〉のようでした。
妹にはさらに悪夢が待っていて、食事の際にぐずぐずと食べていたら、マヨネーズ味のポテトサラダを口いっぱい押し込められました。以来、彼女はマヨネーズが嫌いになってしまいました。
つまり、私が何を言いたいかというと、自分の意思に反して見知らぬ地へ連れて行かれることや、次に何が起こるかわからず大人たちに翻弄される恐怖というのは、若くして招集された兵士たち(沖縄県では14~16歳の学徒まで招集されたそうです)の抱えた感情にも通じる気がするのです。
ことわっておくと、私が入所した児童養護施設と同じような虐待が、当時も現在も横行しているとは考えていません。職員たちも何かを抱えていたのではないかと、今なら考えられるのです。
一方、明るい記憶もあります。
その施設には小さな礼拝堂があって、あまりにも泣き過ぎる私たち姉妹は1人のシスター(そう呼ぶのだと、私は職員に聞かされました)に連れられ、大きなマリア像の前で今の気持ちを何でも言っていいと言われました。
何せこちらは4歳ですから上手に言葉にできたとは思いませんが、シスターはたびたび時間を取ってくれ、私は泣きながらありったけの悲しさを吐露でき、気持ちを落ち着かせていたと思います。ただ、職員らのことは、子どもながらに言ってはいけないことのように思っていました。
シスターはうんうんと聴いてくれ、お母さんは赤ちゃんを産むから今は入院していて大変なのだと、でも、必ず私たちを迎えに来るのだと言ってくれました。
シスターはある日、話の最後に小さなアルミニウムの〈メダイ〉を私と妹にくれました。悲しいときは、これにお祈りするといいと言われました。妹は早々に無くしてしまいましたが、私は実家を飛び出すまで持っていました。残念ながら、今は無くしてしまったのですが。
4歳の私には魔法のメダイでした。妹は昼間泣き疲れて、次第に夜はぐっすり眠ってくれるようになりました。すやすやと眠る妹に安心し、私は布団の中でそのメダイを握りしめて、『早くお母さんが迎えに来てくれますように』とお願いし続け、間もなく叶ったのですから。
この私のメダイと同じようなものが、若い兵士らにとっては故郷の母親からの手紙だったかもしれません。『早く母ちゃんに会いたい』、間違いなくそう願っていたでしょう。
4歳下の妹も無事に生まれました。
今日の命に感謝し、戦地で亡くなった兵士らへ哀悼の意を表します。
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