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お気に入りの傘

駅の改札を出たところで、亮太は自分の傘がないことに気づいた。座席の上に置きっぱなしにしてしまったらしい。

「まぁ、仕方ないか」

傘をなくすのはこれで三度目だ。しかも、今日の傘はお気に入りだった。父親が数年前にくれた、落ち着いた青色のチェック柄。正直、それほど高価なものではないが、妙に手に馴染む感じが気に入っていた。

その日、会社での仕事は散々だった。上司には小言を言われ、ランチのサンドイッチは思った以上にパサついていて、午後の打ち合わせではミスを指摘される始末。

「傘をなくしたのが一日の始まりだったのかもな」

そうつぶやきながら、亮太は帰り道を急いだ。空はどんよりとして、いつ雨が降り出してもおかしくない。

翌日、いつもの通勤電車に乗ると、亮太は驚いた。車両の隅に、自分の傘が立てかけられていたのだ。

「まさか…同じ傘?」

半信半疑で近づいてみる。柄も色も間違いない。確かに自分の傘だった。誰かが届けてくれたのだろうか。それとも、ただ偶然ここに置かれたのか。

亮太はその傘を手に取った。そして、気づいた。傘の持ち手に、小さな紙がテープで貼り付けられている。

「いい傘ですね。おかげで雨の日が楽しかったです。ありがとう。」

亮太は思わず笑ってしまった。誰かがこの傘を使っていたらしい。それも、ただの道具としてではなく、ちょっとした感謝の気持ちを抱いて。

その日から、亮太の中でその傘は「普通の傘」ではなくなった。朝、電車に乗るとき、いつもより少しだけ周囲を見回してしまう。昨日の持ち主がどんな人だったのか気になったのだ。

例えば、あの親しげな笑顔のサラリーマン?それとも、窓際で本を読んでいる女性?考えるたびに、なんだか楽しくなってきた。

数週間後、亮太はふと、その傘をまた電車に置いていくことを思いついた。持ち主不明の感謝を受け取ったのだから、自分も次の誰かに渡してみたい。そう思ったのだ。

朝の通勤電車で、亮太は静かに傘を座席に立てかけた。そして、同じように持ち手に紙を貼った。

「この傘があなたの雨の日を少しでも楽しくしますように。」

電車を降りるとき、亮太は振り返らなかった。ただ、これで良いのだと思った。

その後も亮太は、駅や電車で自分の傘に似たものを探すことがあった。でも、もう見つかることはなかった。きっとどこかで、新しい誰かの雨を支えているのだろう。

日常は変わらないようで、少しだけ違って見えた。亮太は、いつもより小さな雨音が心地よく聞こえる朝を楽しむようになっていた。

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