猫の恩返しじゃないけど
僕が住んでいるマンションは、いわゆるペット禁止の物件だ。だからこそ、隣人の部屋から聞こえる「にゃー」という鳴き声に最初は驚いた。
いや、正確に言えば驚いたのはその後だ。隣人である高村さんは、僕が不審そうにドアを見ているのに気づくと、ドアを少し開けて言ったのだ。
「これは猫じゃない」
「いや、どう聞いても猫ですけど」
「違うよ。これ、僕だ」
高村さんは真顔だった。僕がぽかんとしていると、彼はさらにこう続けた。
「猫の鳴き声を練習しているんだよ。似てた?」
「似てたっていうか、完全に猫ですよ。それ、何のために練習してるんですか?」
「万が一、猫が助けを求めてきたとき、会話できるようにするためだ」
その瞬間、僕の中の「高村さんは普通じゃない」という認識が確信に変わった。
それ以来、高村さんは時折、猫の話をしてくるようになった。
「この間さ、駅前で猫に会ったんだよ。あいつ、絶対『ありがとう』って言ってた」
「なんで分かるんです?」
「目がそう言ってた」
いや、猫の目で感謝を読み取れる人なんているのだろうか。だが、高村さんは本気だった。彼にとって猫はただの動物ではなく、言葉を交わせる友人のような存在らしい。
「ところで、君も猫語を練習してみないか?」と誘われたときは、さすがに断った。
そんなある日、僕が帰宅途中に駅前で雨宿りをしていると、一匹の黒猫が足元に近づいてきた。
「おいおい、こんな雨の中、大丈夫か?」
黒猫はじっと僕を見上げると、どこか不安げに「にゃー」と鳴いた。
「あれ、まさか本当に助けを求めてる?」
猫語なんて分かるわけがないが、その瞬間、高村さんの真顔が脳裏をよぎった。
「いや、まさかね……」
迷った挙句、僕は猫を拾い上げ、急いでマンションに戻った。もちろん、ペット禁止のルールは頭にあったが、雨の中そのまま放置する気にはなれなかった。
部屋に戻り、タオルで猫を拭いていると、また隣のドアが開いて、高村さんが顔を出した。
「あれ、猫?」
「これは……その、えっと」
すると、高村さんはニヤリと笑い、こう言った。
「僕が言っただろ?いつか猫が助けを求めてくるって」
「いや、これ、偶然ですって」
「で、彼はなんて言ってる?」
「え?」
高村さんは真剣な顔で猫を見つめ、何か考え込んでいる。そして突然、「分かった!」と叫んだ。
「『お礼に魚を持ってくる』って言ってるぞ」
「いやいや、そんなこと言うわけないでしょ」
その後、猫は一晩だけ僕の部屋で預かることになった。翌日、高村さんが近くの動物病院に相談してくれて、猫は新しい里親を見つけることになった。
「猫も安心しただろうな」と僕が言うと、高村さんは得意げにこう言った。
「当然だろ。だって、猫語でちゃんと『ここは安全だ』って伝えたからな」
僕は笑うしかなかった。
それからしばらくして、駅前でまた別の黒猫を見かけた。近くの魚屋の前に座っていて、店主から小さな魚をもらっている。どこかで見た猫だなと思ったが、確証はない。
ただ、猫が魚を咥えた瞬間、こちらをちらりと見た気がして、少しだけ笑ってしまった。