普通の隣人
僕の隣に住む男は、何かがおかしい。
まず、引っ越してきた日の挨拶だ。一般的な「よろしくお願いします」だけで終わると思ったら、その男は一枚の紙を僕に渡してきた。そこには大きくこう書かれていた。
「僕は普通の人間です」
普通の人間が、そんなことをわざわざ宣言するだろうか?
「なんですかこれ」と僕が聞くと、彼はまじめな顔でこう答えた。
「自分の正体を疑われたくないんです」
「正体って…あなた、スパイか何かですか?」
「そういうわけじゃないんですが、世の中には誤解というものがありますから」
その時は、変わったやつが来たなと思っただけだった。しかし、日が経つにつれて、彼の「普通」を疑う出来事が増えていった。
例えば、ゴミ出しの件。隣人の男は決まって毎週火曜日、燃えるゴミの日にゴミ袋を出す。しかし、彼が出す袋にはなぜかいつも「燃えないゴミ」とマジックで大きく書かれている。
「普通の人間なら、燃えるゴミの日に燃えるゴミを出すでしょ」と注意すると、彼は真剣な顔で答える。
「僕が出すのは、どちらかというと『心が燃えないゴミ』です」
なんだそれ。僕は呆れながらも、それ以上深く聞くのをやめた。
もう一つ変なのは、彼の部屋の音だ。毎晩、妙な音楽が聞こえてくる。ピアノかと思いきや、途中からバイオリン、果ては謎の機械音まで混ざる。
「音楽、やってるんですか?」とある日聞いてみたら、彼は少し考えてこう言った。
「いや、僕がやってるんじゃなくて、音楽が僕をやってるんです」
何を言ってるのかさっぱり分からない。ただの変人だと片付けたかったが、妙に気になる。
そんな隣人が、ある日突然引っ越すと言い出した。荷物をまとめている彼に、「どこに行くんですか?」と聞いてみたら、またもやわけのわからない答えが返ってきた。
「地球の反対側です」
「それ、南米とかそういう意味ですか?」
「いや、物理的にはここかもしれませんが、感覚的には反対側なんです」
意味不明だ。それでも彼は荷物を運び出し、引っ越しトラックに乗り込んだ。
最後に、「何かあれば連絡ください」と言いながら、また一枚の紙を僕に渡してきた。その紙にはこう書かれていた。
「僕は、やっぱり普通の人間です」
その日から、隣の部屋は静かになった。でも、時々あの謎めいた男の言葉を思い出してしまう。そして、もしかしたら僕も「普通の人間」ではないのかもしれない、なんて妙な気持ちになる。