看板
人はそれぞれ、看板を背負って生きているのかもしれない。
わたしは野球選手
わたしはパン職人
「職業」が看板になっている人もいるだろう。
愛犬ポチの主人
何某というアイドルのファン。
「職業」だけじゃないかもしれない。
人はいつ、どこで、看板を見つけるのだろうか?
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「病名は横紋筋肉腫。治療は、秋ぐらいまでかかるでしょう…」
4月の夕方のこと。
病棟の片隅にある小部屋。
窓の外を見ると、もう夕暮れが近い時間になっていた。
おうもんきんにくしゅ、という呼び名のそれは、がん、
その中でも軟部肉腫というものの一種である。
どちらかというと、子どもに多い、
といっても、年間の発症者は、
日本全体で50人~100人程度といわれている。
「大学、休学しないといけないな」
医師からの説明を聞いて最初に浮かんだ考えは、それだった。
ふつうはもう少し、絶望したり、するんじゃなかろうか。
思えば1か月半前、最初に診察を受けたときから、
右手にできた「できもの」が、単なる筋肉ムキムキではないということはわかっていた。
それからは、人生で初めて、
医療機関のハシゴをして、何度も何度も検査を重ねてきた。
検査を重ねるということは、つまり、
その「できもの」がどうも良からぬものではないか?
という疑惑があるからこそ、
あるいは、その疑惑を晴らしたいと思うからこその、お取り調べである。
検査を重ねる2か月足らずの日々にも、
右手にある「できもの本社」はもちろん、
右わきの下にある「しこり支社」など身体の各部が、
次々と疑惑を現地リポートしてくれた。
そんな「わが身=疑惑の総合商社」という日々を送るうちに、
いつしか心の準備を万全に整えていたのだろうか。
「がん告知」を、あまりにも、あっさりと受けとめてしまう自分がいた。
わが家では、祖母がつくってくれるラーメンといえば、
いつも塩ラーメンと決まっている。
ゆえに、あっさりした反応であった、のかどうかは知らない。
ともかくも、
がんという診断そのものの衝撃は無いに等しかった私。
大学の同期と一緒に卒業することができないという現実には、
いくらかの寂しさをおぼえていたけれども。
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人は、苦労して、看板を手に入れるのかもしれない。
わたしは音楽家
わたしは総務部長
わたしは宮大工
長年努力して、汗や涙を流して、
いろんなものを犠牲にして、
看板を手に入れることが、よしとされたりする。
かたや、
思いがけず「がん患者」という看板を手にいれた私。
なんの苦労も、努力も、アラスカも経由することなく、
直行便でたどり着いたのは、人生で初めて手にする「看板」だった。
高校時代ずっと打ち込んだ部活、特になし。
特技と胸を張って言えるもの、特になし。
当時、21歳の私にとって、
「看板がない」ことは、ひそかな、しかし、大きな悩みの種だった。
十分に恵まれた人生を送っているとは感じていたけれど、
同時に、
自分の中に同居する薄っぺらさに困惑していた時期だった。
そこに舞い込んだ「がん患者」の看板。
努力したのは、私というより、
私の一部たる細胞とか、そういった面々なのだが。
ともあれ、
人生で初めて、看板を手に入れたかもしれない、
もしかして名刺代わりになるような何かを、手に入れたかもしれない。
とっぷりと日が暮れる頃には、
すでに、そんな感覚をおぼろげながらつかんでいた。
がんという診断を受けたとき、
絶望するというのは、ごく自然な反応である。
がんという診断を受けたとき、
看板背負ったで!と受けとめるのは、
どうやら、あまり普通じゃないようである。
今になって思う。
あのときの自分が置かれた立場、状況。
そのときだからこその反応。
看護師になろうとして、
勉強している途中だからこそ湧いてきた、
この経験は将来に活きるかもしれない、という思い。
もし私が、今、がんと診断されたなら、
とっぷりと絶望するかもしれない。
もしかしたら絶望しないかもしれないが。
もし私じゃなくて、私の大切な人が、がんと診断されたなら、
きっとつらく思うだろう。
今までもそうだったし、きっとこれからもそう。
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がんという診断を受けたことや、
がんによって暮らしが変化したために、
それまで背負ってきた看板を下ろさなくてはいけない、とか、
看板を掛け替えなくてはいけない、
そんな苦しみを抱えている人がたくさんいることに、
今だからこそ気づく。
なにも、がんに限ったことではない。
病気、けが、災害、別れ、経済的な困難さ、老い。
人生には、あまりにも多くの喪失がある。
21歳で手にした看板。
ほんのわずかの喪失と引き換えに手にした看板。
なんの苦労もせずに手に入れた看板。
なんか、ズルして手に入れたみたいだ、なんて、
不安になることも、しょっちゅうある。
それでも。
私はあのとき手にした看板を、
もうしばらく大事に抱えて、生きていきたいと思っている。
そうすることで、
自分の人生についてまわる喪失と、
誰かの人生についてまわる喪失に、
ちゃんと向き合える気がするから。