あることの信憑性を論じてみる
序論 〜「幸せです」の信憑性〜
「幸せです」という人と「幸せになりたいです」という人がいたら、幸せになりたいと思っている後者が信頼できるという意見です。
幸せは人が生きる最大の目標であり、人は幸せな状態に至るために生きているという言説は一般論ではないかと思います。
では、幸せとはなんなのでしょう。
私はこれが分かりません。「心が満たされている状態」が1番近いとは思いますが、幸せってあまりにも大きすぎて掴みどころがない話のような気もします。
「楽しい状態」とも何かが違う気がします。
本論で、言葉による実験をして、違和感の正体を考察します。
本論 〜信憑性の検証①②
信憑性の検証① 〜日本語としての幸せ〜
第一に、言葉の待つ重さが途方もなく重い気がするんですよね。ハッピー、ハピネスって言い換えると、軽くなる気がします。言葉って不思議ですね。だから「ハッピーなう」っていう表現は共感できますが、「幸せなう」っていう表現になると、本当かなーと疑ってしまいます。
自分の中で、幸せというものが、ここまで大きな概念であるにもかかわらず、一方で、美味しいものを食べた時や、なんの予定もない日に散歩して、心地いい風を感じた時に「幸せだなあ」と思ったりもします。
つまり、幸せというのは私にとって得体が知れない存在なのです。
信憑性の検証② 〜言葉の組み合わせでの幸せ〜
次に、幸せのイメージに近い単語を列挙して合致するものがあるか確認します。
結婚、食事、自己実現、家族、成功、友人、達成、ダラダラ、ゴロゴロ、睡眠、入浴、心地良い風、地位、暮らしぶり、あたたかいスープ
食事とあたたかいスープが項目的に重複したので、ここで止めます。
こうして考えると、どの項目も幸せと思えるときもあれば幸せと思えないときもあるなと思えます。単語の頭に「幸せな」をつけると分かり易いです。幸せな結婚ばかりでもない気がしませんか。
よって、並べた語群に幸せと合致するものはないという結果になりました。
結論 〜「幸せかも」くらいが人間らしい〜
さて、以上を踏まえると、こんな得体の知れない幸せっていう状態に、常日頃からなっている人ってそんなに多くないと思いませんか。
だから、私はこの謎現象、幸せを考え続けて、たまーに、「あ今、幸せかも」とか思う人の方が信頼できるのです。
以上。
論文風にしてみました。あくまでも風です。
不規則なスペースと話し言葉は味です。
文章のサイズ変更を覚えました。
ではまた。