
過去の自分を捏造する。
皆さん、こんにちは。人間失格の木賃ふくよし(芸名)です。
さて。事件自体を追ってないので、詳しくは知りませんが、何か
名作小説に
漫画家が
表紙を描く
って事に賛否両論あるらしい。ふむ。わからなくもないが、わからない。
随分前に、「人間失格」だか何かの表紙を「デスノート」の小畑健が描いて、同じような話になってた訳だが、これはもうワタクシの中で終了してる話なんですよね。
ワタクシは小説とか好きなので、安吾ちゃんだって、谷崎だって、漱石だって、武者小路実篤だって、川端康成だって三島だって太宰だって芥川だって全部ではないが、それなりには読んでる。
好きな作品も、好きじゃない作品もある。で。割とワタクシ、小説に挿絵は要らない派なので。
おっさんとしては、小説の表紙が漫画絵とかアニメ絵があると何か買いづらいし、そもそも想像を楽しむ小説のイメージを、表紙で決め付けられてしまうのは好きじゃない。だから、個人的意見を言うならば、小説の表紙なんて無地でも良いぐらいなのである。
だから、漫画絵とかアニメ絵の表紙はやめて欲しい。これが個人的意見である。
だから、と言っても、アニメ絵の表紙を否定する気はさらさらない。
嫌なら
カバー外せ。
てか、新装版を買わなきゃいいだけの事だ。
てか、旧版を持ってるなら文句を言う所でもあるまい。
映画だって本だって漫画だって、往年の名作を手に取ってもらえる可能性なんて低い訳だ。好きな人しか遡って名作に触れようなんて思わない。
要するに触れてもらってなんぼ。売れなきゃ意味がない。だから、売れるための努力として、今の若者にウケる工夫をしただけに過ぎないのだ。
埋もれる傑作より、読まれる名作であるべきなのだ。表紙で作品の本質が変わる訳でもあるまいよ。
アニメ絵でも
漫画絵でも
ウエルカム。
まぁ、ワタクシは手に取らないが。
別に古本屋で旧版買えばいいんだし。
それがワタクシの考え方である。本題はここからである。昨日、その話をしてて、その話の続きで、ワタクシが気になってる事に触れてみた。
小学生、中学生、高校生、大学生の絵画展を見ると、漫画絵、アニメ絵がものすごく多いのである。
ワタクシはコレにものすごく違和感を覚えるのだ。
別に、美術に形はないし、表現方法なんて無限。けれど、絵画展なのに、漫画絵、アニメ絵だらけなのである。
ふむ。まぁ、時代なのかな、と。おっさんが付いていけてないだけなのかな、と。別に特段腹を立てるほどの事でもないが、違和感がすごかったので、なぜ違和感を覚えるのか、よくよく考えてみた。
習うべき絵画技術とは、デッサン力、遠近法、陰影のつけ方、色使いなどなど。そしてそれぞれに積み重ねてきた技術。それを学ぶのが絵画の授業である。それを知識とか腕として身に付けるのが美術の勉強のはずだ。
その技術を披露するのが学生の絵画展のはずなのに、そこに漫画が描かれている。アニメが描かれている。
うむ。ワタクシの違和感の正体はここなのだ。
ボクシングの試合を観てるはずなのに、蹴り技がある。いや、キックボクシングを観に来たのではないはずだ。そーゆー違和感。
それが嫌なのだ。ボクシングもキックボクシングも大好きだが、それぞれのリングでやってくれ、という気がしてしまうのだ。
無論、美術にルールはない。それは理解している。しかし、学生の絵画展には、それなりのルールがあるべきではないのか。
そんな話をしていたら、「そういった数多の技術を踏まえた上で、自分の描きたいものを描いた結果の作品として観てみては?」という意見が出て、
ふむ。確かに。
と気付かされた。その技術が活かされていない、と決め付けてる事自体が思い込みなのである。
そして、そこから自分の学生時代を思い出して、さらに気付く。
しょーもない自尊心から、
教師に教えられた技術を
一切使ってやるもんか。
とか思ってたわ、ワタクシ。ええ。その技術自体には、
「あ。すごい。便利」
とか思ってたにも関わらず。
うむ。
人間は過ぎ去りし記憶を勝手に捏造して、当時の振る舞いを書き換えてしまうものなのだな。わかってはいたけど、もろに自分がそれだったと気付かされると、さすがに顔から火が出そうである。
自分が「良い子ちゃん」だったなんて記憶を捏造してる人は、よーく思い返してみよう。
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(´・Д・)」 文字を書いて生きていく事が、子供の頃からの夢でした。 コロナの影響で自分の店を失う事になり、妙な形で、今更になって文字を飯の種の足しにするとは思いませんでしたが、応援よろしくお願いします。