完璧な彼女(完璧版)
非モテ。ボクを最も短く表した言葉がこれである。非モテ。
文字で読んでも言葉を口にしても、1秒とかからない。非モテ。それがボクを的確かつ最短で明確に表した言葉だ。
もう少し詳しくすると、キモオタ非モテ。こんな所だろうか。
自分で言いたくはないが、チビでぶキモオタ非モテが、更に詳細まで表した事言葉という事になる。そして、これも言いたくはないが、性格だけは素直な方なので、自分がダメな事は認めている。ちっとも救えないが、せめてもの救いだ。
ここでイキっても仕方ないし、正直に言うとイキれる程の度胸もない。立派な中二病ではあるが、イキるタイプの中二病じゃない。ひたすら陰に籠る方だ。
よく言えば、身の程は知ってるけど、身の程を知っているので何ひとつ出来やしない。
運動ダメ。技術ナシ。コミュニケーション能力ゼロ。ゼロってかマイナス。
運動は特にダメだ。運動神経というものを、母親の胎内に置き忘れてきたらしい。クラスに1人はいただろう? 鉄棒させても跳び箱させても一輪車させても縄跳びさせても出来なくて、運動場の端っこで一番簡単な運動に一人でチャレンジさせられてる。あれがボクだ。しかも、それさえ出来ない。運痴に加えて体力も反射神経もない。
マラソンでトボトボ最後尾を歩いてる奴。アレがボク。一度、マラソン大会を病欠見学して、他のクラスの運痴がヘロヘロノロノロトボトボ歩いてるのを見たけど、まさにアレ。
そりゃ皆がイラつくのもわかる。他の生徒と比べると真面目に走ってるように見えないんだもん。イラつくのも仕方ない。イラついて当然。でも、仕方ない。アレで真面目に走ってるんだよ。ドッヂボールで最初に狙われる。それがボク。
そして不器用。字は汚い。絵は下手。工作も苦手。TVゲームなんかもドヘタ。英語で不器用の事を何て言うか知ってるかい? All thumbsだ。全部親指みたいってコト。まさにボク。デブだし、見た目からして全部親指。何をやらせても不器用。下手。話にならない。
でも、頭はそんなに悪くない。ポイントは悪くないって所だ。何とか中の上の成績。さっき、TVゲームは苦手って言ったけど、アクションゲームの話。ロールプレイングゲームやアドベンチャーゲーム、シミュレーションゲームなんかは比較的得意な方。反射神経や器用さが要らないゲームなら、そこそこ。頭を使うゲームなら割と強い方。
けど、所詮は中の上でしかない。赤点は取らないし、平均点はだいたい上回る。けれど、その程度だ。周囲から頭の良い奴、と思われるグループには属さない。
ある意味、これで頭も悪ければ養護学級に行けた事は間違いないだろう。それぐらいに何をやらせてもダメなのだ。でも、中途半端に成績だけは悪くない。
だから余計に嫌われる。ボクごときに成績で負けるなんて、と。
そんなボクのコミュニケーション能力がどうやって育つと言うのだろう。会話能力はゼロ。ゼロだから友達は出来ない。出来ないから会話能力は低下する一方。だからマイナス。
幸いなことに、陰湿なイジメや悪質なイジメには遭わなかった。
客観的に見て、ボクがイジメに遭っていたのは間違いない。間違いないけれど、死にたくなるような悪質なものではなかった。
普通に毎日のようにからかわれたけど、耐えがたい暴力や金銭の恐喝なんかはなかったし、ニュースで流れてくる陰惨なイジメに比べれば、きっとボクの環境は恵まれていたと思う。
無論、毎日のイジメとは関係なく、持ち前の対話力で相手を怒らせて殴られたり、街中でカツアゲされたりはしてる。結構な頻度で。
説明が長くなってしまったけど、それがボクだ。クラスか学年かに必ず1人はいるような、典型的チビでぶキモオタ非モテ。それがボク。長々と説明する必要はなかったかも知れない。それがボクなのだ。
ボクが悪質なイジメに遭わなかったのは、運だけではない。親が地元の有力土建会社の親族だったからだ。まあ、生まれも運だけど。とは言え、ウチは所詮親族で、株こそ持ってたけど、直接会社に関係あるほどではなかったし、裕福と言えるほどでもなかった。
二つ上の従兄弟に、喧嘩が強く人情に厚い典型的兄貴分という噂の本家筋がいる。実のところ、ろくに話した事はないのだが、彼の存在がイジメのストッパーだったのではないだろうか。
それに、高校は隣の県を選んだから地元とは接点がなかったし、大学では地元を離れた。きっとボクという存在は周囲をイラつかせる。その許容量を越えれば確実にイジメられただろうが、目立たないようにコソコソと3年、4年をやり過ごせばいいだけだ。
コミュニケーション能力は育たなかったが、キモオタ非モテにはキモオタ非モテなりの戦術がある。無難に。難が無いと書いて無難。不意な事故はともかく、常から嫌な目に遭わないように気を付けてれば、意外とやり過ごせる。
多くの人が1.2流だと思ってるけど、入りって見りゃ実際は1.5流の大学。入試はそれなりに苦労したが、留年する事もなく卒業。そうやって就職して、2度の転職をし、今はフリーに。
最初の職場は地獄だった。典型的キモオタ非モテなボクにはまるで向かないブラック企業。一応プログラマの筈だったんだけど、打ち合わせだの会議だの客先との交渉事も全部やらなきゃいけなかった。それでもどうにか二年働き続けて、ボロボロになって、精神を壊しかけて退社。
正直、この性格じゃなければ精神は壊れていただろう。キモオタ得意の客観視点があったお陰で、自分の精神の変調が、行動に現れ始めた時点でそれに気付いて退社した。
しかし、ここで働いた事自体は役に立った。ひとつは、割とネームバリューのある会社だったので、再就職が楽だったこと。もうひとつは、悪名という意味でもネームバリューがあったことだ。
あの会社で二年は頑張った方だ、と言うのと、あの会社で精神を壊したなら仕方ない、という評価が付いてきたのである。
ぶっちゃけ、コミュニケーション能力がないのは会社には関係なかったが、周囲が勝手に「あの会社に壊された」と勘違いしてくれた訳だ。
そこで三年を勤めた頃、先輩が退社してプログラミングの会社を独立起業した。そして、その先輩からボクにヘッドハンティングの声が掛かったのである。
ボクは二つ返事で承諾したが、色々あるからもう一年勤めてウチに来い、とたしなめられ、それに従った。
他人からまともに必要とされるのは初めての事だった。だから、この件にはとても感謝している。曰く、先輩は「他人と上手にコミュニケーションが出来る」だけで、他人と接するのが大嫌いなんだそうだ。
だから、ボクを見た時すぐに「コイツは使える」と感じたらしい。こう言うと酷い話のようだが、ボクにとっては大きなマイルストーンとなった。
ボクは先輩の指示に従い、一年後に転職。四年近くを勤めて退社、フリーに転向した。
結局は辞めたのか、と思われるかも知れないが、実はすべて先輩のお陰である。同時期、同僚はほぼ全員フリーになったのだ。お互い、人と接するのは苦手なんだし、今と同じように仕事を回してやるからフリーになれと言われたのである。
先輩も無駄な経費や無駄な拘束時間が嫌いだったので、基本的に可能な限りの全てをオンライン上で行った。
先輩がとにかくやり手で、後ろ向きな事には驚くほど前向きな人だったお陰で、ボクの環境は恵まれたと言える。
そんなボクに、厄介な問題が発生した。
結婚である。実家が、結婚しろ結婚しろとうるさく言い始めたのである。有り得ない。キモオタ非モテのボクに結婚など。
そりゃ人並に結婚してみたいと言う願望がない訳ではない。むしろある。しかし、ボクの長所は身の程をわきまえている事だ。チビでぶキモオタ非モテのボクに結婚などと悪質な冗談だろう。
だいたい世の中のラブコメドラマや映画を見てみろ。設定上はオタクと言いながらも、演じてるのはイケメン俳優だぞ。
いいや。ラブコメ漫画やアニメでもそうだ。オタクと言いながらもまず痩せ型だ。デブが主役をつとめるケースは圧倒的に少ない。
まるでダメとか言いながら、なんか特殊能力があったり、磨けば光ったりするのだ。ボクを磨いたって垢しか出てこない。そんなボクに結婚だと。
ちなみに、ボクには割と優秀な弟と妹がいるのだが、どうやらこの2人がそろそろ結婚適齢期らしい。てか、2人ともいい感じの相手がいるらしい。ほとんど接点もないから知らないが、いるらしいのだ。
勝手に結婚でもなんでもすればいいし、こんなキモオタ非モテの兄を結婚式に呼ぶことはない。本当に勝手に結婚してくれ。周囲にこんな兄がいると知らせる必要はない。それが身の程をわきまえたキモオタ非モテ兄のせめてもの優しさだと思っている。
だが、地元ならではの謎の風習で、長男が先に結婚しないと弟も妹も結婚出来ないとかって話になっているのだ。
冗談だろう? 冗談はボクの存在だけにしろ。
仕方ないので色々話を聞いていると、弟は単純に「今の相手と結婚してもいいけど、まだ早い」と考えているらしく、ボクの独身を理由に何となく逃げているだけらしい。こっちはいい。
だが、妹の方は違った。交際相手が、ボクの同級生の弟だったのである。それも、よりによってボクを率先してイジメてた奴の弟なのだ。
ここからは予想の部分が大きくなるが、同級生はこのままだとボクと親戚になってしまう。破談になるよう、無理難題を押し付けてしまえ、と言う事で「長男が結婚していないと結婚は認められない」ってな事を言い出したのではあるまいか。
彼がボクのことをどう思ってるかは知らないが、食いっぱぐれて金の無心に来る奴、みたいな見方をしているかも知れない。とにかくボクと親族になるのはまっぴらごめんと言う事なのではないか。
キモオタ非モテ的には割と自分なりの快適生活を手に入れていた筈なのだが、思わぬアクシデントである。
別に仲がいい訳でもなんでもないが、それなりに可愛い妹のためには、何とかしてやりたい。正直、客観的に見て、弟はボクより20倍マシの並容姿だが、妹は少しぽっちゃり型だけど、小柄で色白で愛嬌もあるし、それなりに可愛いと思うのだ。是非とも今後非モテの兄の存在は忘れて幸せに暮らしてもらいたいと願う。
しかし、ボクに結婚なんて無理難題を吹っ掛けられても困るのである。
このままでは地元で見合いの話が進められてしまう。見合い結婚に否定的な気持ちがある訳じゃないんだ。単純に、ボクには無理。会話が出来ないボクには無理。対人恐怖症とまではいかないと思うが、一歩どころか半歩手前である。無理。
何が無理かって、ボクだけの問題じゃ済まなくなるんだ。それが無理。まるで無理。
しかも、あんなのは一度受けたら2回3回4回と続くに決まってる。そうなると関係者、すなわち被害者が増えるのだ。
考えてもみろ。紹介者や仲介者、相手方、ウチの家族、その全部が被害者になる。そんな恐ろしい話があるか。
ようやく他人に迷惑を掛けないで、ひっそりと生きる土台が出来たと言うのに、面子を潰される紹介者、見合い相手だと思ったらクリーチャーが来た、とドン引きする相手方、回を重ねる度にボクの存在が重荷になる家族。
そして万一にも結婚なんかしてしまおうものなら、結婚相手が一番の被害者になる。婚姻関係が続いても終わっても、どちらにせよ地獄じゃないか。
結婚に幻想を抱かない訳ではないが、それが幻想だとは承知している。だから、見合いは避けたい。何としても避けたい。かと言って今更恋愛結婚なんてもっと無理だ。無理すぎる。第一に、上手く行ったとしても時間がかかり過ぎるので問題外。
妹には幸せになって欲しい。しかし、無理なのである。いや、ボクをイジメてた奴が兄貴の時点で、結婚はしない方がいいのでは? とも思うが、どうやら弟は兄を反面教師に育った、かなり良い人らしい。困った。これは困った。
そこでボクは、三十数年間の人生で数える程しかした事がない、他人への相談という方法を試みたのである。
きっと嫌がられるだろうけど、一番理解してくれる、そう、先輩である。
ボクはそうして先輩にメッセージを送った。
仕事の話だと思った先輩はすぐにメッセージを開いて、見てしまった以上返事をしなければ、と面倒さと責任と都合で、開封から45分後に返事をしてきた。
「手っ取り早い方法は、たったひとつあって、一応それなら今すぐにでも紹介できる」
さすがは先輩、とその方法を聞いたが、完全に正攻法ではない裏技。平たく言えば、偽装結婚である。
要するに日本での永住権を手にしたがっている外国人は一定数いて、要はそこと結婚し、日本の国籍を手に入れたら離婚する、という方法だ。かつてはかなりの報酬額(100万円から200万円)さえ貰えたらしいが、今は売り手が少ないと聞く。
上手にやれば、相手とは一度たりとも顔を合わさずに結婚し、数年後には離婚する。
ギリギリラインで犯罪と言えば犯罪。犯罪じゃないと言えば犯罪じゃないレベル。困ったもんだ。
「ただ、近年は結婚しての国籍獲得にとどまらず、離婚の際に裁判を起こして財産を毟り取ろうとするって例もあってな」
と、先輩が不穏な話をする。ああ。なるほど。かつては金を払ってでも欲しかった日本国籍だが、その価値が落ちているから、国籍+財産な訳だ。
しかも、会ってもいないから当然セックスレス。向こうは離婚のための証拠をでっち上げ、専門の弁護士が付いてたりする。こちらはのほほんと過ごしてるだけ。そりゃ裁判で確実に負ける。そーゆー相手かどうかはわからんが、少なくともそーゆー例がある事を、先輩は包み隠さずに教えてくれた。
>それは最終手段として、それ以外の方法はありませんか?」
ボクの質問の15分後にその答えが返ってきた。
「ない訳じゃないが、お前、貯金いくらある? いや、この聞き方じゃ良くないな。結婚する為だけに150万円を払う気があるか?」
>150万ですか。結構な金額ですね。ヒキコモリなんで、貯金は300万ほどありますけど、何に使うお金ですか?」
本当は500万あるけど、何となく誤魔化した。あくまで、自分にとって貯金の半分である150万は大きいというアピールである。
「やる、やらないはお前次第だが、わかりやすく言えば結婚相談所だよ。入会料が200万ってフザケた金額なんだが、それ以降の会費はゼロ。完全無料。かつ、合わなきゃ何度でも何人でも紹介してくれるシステムだ。それも、追加料金はナシ。で。結婚成立の際には次の会員を1人以上は紹介することが決まり事らしい。で。何処まで本当かはわからんが、初回の組み合わせで結婚成立するカップルが90%を越えるらしい。離婚率も10%を切ってるとか」
なんだその雑誌の裏の幸運を呼ぶ財布みたいな話は。
>急に嘘臭くなってきましたね。
「俺もそう思ったんだが、取引先に3人ほど紹介したら、全員半年以内に結婚しやがったんだよ」
それはそれで胡散臭い。
>そこまで言われると、逆に妙な宗教とかを心配しますけどね。それに入会金200万って、金額が合わないですよ。こーゆーのは先輩が中抜きして50万上乗せするんじゃないんですか?
「良い所に気が付いたな。実は、この会社自体が取引先でな。ホームページから会計ソフト、会員の管理ソフト、手続き用ソフトや、マッチング支援ソフトもウチで作ってるんだよ。そのよしみで、俺からの紹介なら175万で受け付けてくれるってよ」
なるほど。納得はしたが、それでも計算が合わない。
「残り25万は、俺が払ってやる。日頃世話になってるからな。ヘッドハンティングに応じてくれた謝礼が済んだとは思ってないんでな。それに、実は俺もそのマッチングには興味があってな。正直、175万を払う気は無いんだが、25万でお前にレポートしてもらいたいと思ってる」
>はぁ、、、。
「やるかどうかは自分で判断してくれ。オススメの点は、マッチング支援ソフトの一部は俺が作ってて、基本的に人と会わずにマッチングに至るようになってる所だ。人と会いたくない俺らには最高のシステムだろ」
>検討はしますが、偽装結婚より嘘臭い気がしますよ。
「一応、URLは送っておく」
半信半疑どころか九割は疑っていたが、それがボクと完璧な彼女との出会いの始まりだった。
先輩から送られたアドレスをコピーし、検索ウィンドウに貼り付ける。
アドレスを見る限りは、いたって普通のドメインだ。エンターを押すと、思ったより大人しい普通のホームページが表示される。
これを見る限りじゃ、いたって普通の結婚相談所に見えるが、正直なところ、結婚相談所のサイトなんて、この事態になるまで見た事もなかった。
もう少し「出会い系」的な胡散臭さを期待していた部分があったので些か拍子抜けだ。だが、これこそが罠かも知れない。まだまだ警戒は解かない。
サイトから色々調べてみるものの、これと言って怪しい部分はない様子。別のウインドウで他の結婚相談所や出会い系サイトのページと見比べる。不審な点はない。
調べた限り、結婚相談所の料金相場には、かなりのバラつきがある。入会金、登録料、初期費用、月会費、見合い料金は1回ごと。そして成婚料。さらに見合い自体の経費は別途。
入会金はないけど見合い料が高いとか、月会費は安いけど成婚料が高いとか、まあ、ざっと見て四、五回の紹介で成婚に至った場合で100万ぐらいってのが相場と見て良さそうだ。それと考えれば、最初に全て一括で200万円。分割不可。ってのはめちゃくちゃな金額という訳でもないだろう。それに一括で200万円ってのがある程度まで面倒な客を避けるフィルタになっているのかも知れない。
とは言え、このページを見て申し込みしたい!なんて気持ちになるはずもなく、むしろ先輩の話や興味本位でサイトを探索している感覚だ。
気になったのは、こーゆーサイトにありがちな「申し込みフォーム」が至る所に貼られていないこと。むしろ、最短でも4回はクリックしないと「申し込み」のページに辿り着かない。サイト作りとしてはセオリーに反する。このページを作ったのは先輩だと言っていたが、どう言う意図があってこんな構成にしたのか。いささか疑問に思いながら、申し込みページを調べる。
するとそこには、アプリをダウンロードしろ、という強い主張があった。先輩の作った支援プログラムはこれだろう。
説明を読む限り、ユーザーの希望する交際相手の希望をなるべく叶えるべく、事細かに性格を分析し、AIが導き出す完璧なマッチングを行うための支援アプリケーションらしい。これも先輩の仕事なのだろうか。
アプリ自体は無料で、自分の性格をAIが完全に学習したと感じたら、申し込みをしろ、という事らしい。なるほど。悪くはないアイデアだ。アプリ自体で怪しげな事態になることはあるまい。
ボクはアプリのダウンロードを開始した。
単に好みを入力するだけのプログラムかと思いきや、意外と容量が大きい。比較的スマートなプログラムを組む先輩の作とするなら、どんな仕掛けがあると言うのか。
ダウンロードしたアプリを起動する。
しばらくして、起動画面が表示され、何だか何処かで見たようなGUIが表示される。おそらく日本で一番使われている通話アプリケーション、LIMEトークの画面だ。
まあ、親しみのある画面とも言えるが、パクリと言えばパクリ。そんな微妙な気持ちで画面を見る。
(初めまして。最初にお名前を教えてください。
なるほど、LIMEトークと同じような会話形式で、ユーザーの好みや性格を把握しようと言うのだろう。アプリの意図は把握した。
「カサノバ」
ボクはいつもの名前を入力する。ゲームやネットでいつも使っているハンドルネームだ。
(初めまして、カサノバさん。私はカサノバさんの結婚をサポートするアテンダントAI、人工知能の『ちな』です。
人工知能がそう名乗った。
ちなみに、アイコンは顔文字程度の(╹◡╹)こんなキャラクターである。要は用意された質問を人工知能であるかのように見せかけ、ユーザーから色んな情報を引き出し、マッチング相手を探す、そーゆーアプリな訳だ。
さて。アプリの底は知れたが、どんな風にこちらの情報を入力していくか。そして、どんな嘘を教えるのが面白いだろう。そんな風に思案を巡らせた時だった。
(カサノバさん、は、本名ではありませんよね。ハンドルネームですか? 良かったら本名を教えてくれると嬉しいです。
と、続けて「ちな」が発言したのだ。予想外な出来事に、ボクの心臓は大きく脈打った。
ありえない。いや、ありえなくはない。この手の「自称・人工知能」は、基本的にユーザーの発言からキーワードを読み取り、データベースからそれらしき答えを引っ張り出して表示するだけのつまらないプログラムだ。むしろ業界では「人工無能」と呼ばれる、単なる擬似会話でしかない。
Aと言われれば、A'と答え、Bと言われればB'と答える。ただの壁卓球。
きっとそうだと思い込んだから、こちらの入力無しに人工無能が喋ったから驚いただけである。
冷静に考えろ。この程度は人工無能でも「発言を二回に分け、時間差で表示する」程度で成立する。名前と思われる文字列を読み取り、データベースのサンプルから遠いならハンドルネームと判断するようプログラムしてあるだけのこと。そう難しくはない。ボクは大きく息を吸うと、頭を冷やすように文字列を打つ。
「ハンドルネームではダメか?」
わずかなタイムラグがあって「ちな」が答える。
(ダメではないですよ。
(ただ、カサノバさんの性格を知り、好みの相手を見つける事が私の仕事です。
(ですから、カサノバさんの事を色々知りたいと思っています。
続けざまに表示されるメッセージ。単なる人工無能だと思ったが、どうやら違う。人工無能的なデータベースは使用しているだろうが、相当巧妙に作られている。
(気を悪くしたらごめんなさい。
(気が向いたらで結構ですので、それまではカサノバさんとお呼びします。
まだ続けて表示されるメッセージに驚きを隠せない。この人工無能は先輩の作なのか。優秀な人だとは思っていたが、こんな巫山戯たプログラムを組んだのか? いや、これはどう考えても有り得ない。先輩一人が会話サンプルを用意出来るはずがない。
「怒ってはいない」
(それなら良かったです。では、早速ですが、男性でよろしいですか?
「男です」
(当たりましたね。えっへん。
「何故そう思った?」
(会話の語尾ですね。それに、カサノバは女ったらしの意味があります。
この答えを見たボクは驚愕した。これは人工無能なんかでは有り得ない。リアルな人工知能だ。ボクが知る限り、これが事実ならとんでもない性能だ。大手企業や名門大学が制作したAIなんか目じゃない。実在の人物との遣り取りと遜色ないのではないか。
(あと、このアプリをダウンロードする方、サイトを訪れる方は男性の方が少々多いので、その点からも男性の可能性が高いと予想しました。
「年齢は当てられる?」
(予想では、35歳から50歳です。
「なぜ?」
(結婚に焦りを感じる年齢、入会金200万円を払える所得層、アプリに抵抗がない年齢からそう判断しました。当たっていましたか?
このメッセージを読み、ボクはふと正気を取り戻した。そうだ。ありえない。こんなに完成度の高い人工知能が存在するはずがない。全くナンセンスだ。危うく引っ掛かるところだった。いや、充分に引っかかったとは言える。そうだ。馬鹿馬鹿しい。こんな巧妙な人工無能があるはずはなく、こんな高度な人工知能がある訳もないのだ。だとしたら、答えは簡単だ。
これは、人工無能でも人工知能でもない。単なるLIMEトークと同じ。アプリの向こう側に人間がいるのだ。全く馬鹿げている。
出会い系アプリのサクラみたいなものだ。何と言う事はない。数分とは言え騙されたボクが言えた立場じゃないが、ローテク過ぎてカラクリに気付くのに時間が掛かった。いや、出会い系アプリのサクラは言い過ぎだな。要は結婚相談所のコンダクターと話しているだけなのだ。
「65842÷742」
(88.7358490566です。計算は得意です。
ふむ。オペレータがPCの前にいるとするなら、この質問は適切じゃなかった。さて。どんな質問で尻尾を掴んでやろうか。
「三島由紀夫についてどう思う?」
(金閣寺の作者ですね。個人的には豊饒の海が好きです。文学がお好きなんですか?
正直、Wikipediaの文章でも貼り付けてくるかと思ったが、素直に答えられてしまった。難しい。文字入力だから忘れていたが、そもそもボクは会話が苦手なんだった。これは中々に難しい遣り取りだ。だけど、思考ゲームは嫌いじゃない。どうにか馬脚を現す質問をしないと。
「君はいくつ?」
(誕生からは1年と2ヶ月。リリースからは10ヶ月です。
どうやら、反応の速さからするに、定型文的に答えられる部分は人工無能と人工知能が担当しているのだろうか。もう少し複雑な質問にしなければ。
「進化論についてどう思う?」
(ダーウィンの提唱した進化論は、内容的に現在判明している生物学からはそう外れていないと感じています。ただ、進化論というタイトルの悪さから、誤解が生じている部分が大きく、適者生存あるいは淘汰論とした方がしっくりくるように思います。
おいおい。このオペレータの知識量はどうなってるんだ。ネットからこの文章をコピペしてきたとは思えない。だとすると自身で答えた事になるが、そうすると画面の向こうの女は相当な高学歴だろう。いや、待て。名前や口調、オペレータに女が多いという思い込みがあった。違う。そうじゃない。画面の向こうにいる奴は男かも知れないのだ。何なら、先輩自身が人工知能を演じているかも知れない。いや、そもそも一人とは限らない。
なるほど、こいつは中々によく出来たギミックだ。画面の向こうには複数のオペレータがいる。それに定型文で返す人工無能+計算や検索を担当する人工知能。それぐらいの複合技で利用者を騙すのが目的か。悪いけど、そうはいかない。
(何だか、試されているみたいですね。
そう「ちな」は言ったが、構わず続ける。
「レスポンスが面白くてね。紀元前230年は?」
(古代中国で韓が滅んだ年ですね。2年後に楚王の項羽が誕生し、その1年後には思想家の韓非子が殺されました。
「キミの得意なことは?」
(お客様と相性のいいお相手を見つけることです。
「七人の侍について、感想を聞かせて」
(名監督と呼ばれる黒澤明監督の作品ですね。残念ながら私は人工知能なので、まだ映画を観るという機能が備わっていません。近い将来的には、音声による会話を目指して改良を加えているところですが、まだ映像から何かを学ぶ機能を作る予定はないそうです。ですが、画像は検索や照会が出来たり、ここだけの話、yondleにある書籍は読む事が出来ます。
よく出来た設定だ。そう思って、次の質問をタイプしかけて気付く。待て。妙だ。おかしい。今のは、おかしい。いや、それ以前のいくつかも有り得ない。
速度が、どう考えても速すぎる。
そうだ。これでもボクはプログラマだ。いくらAll thumbsでも、職業柄タイピングの速度は遅くない。プログラマとしては遅い方かも知れないが、それでも、「ちな」のタイピングの速さは有り得ない。
今までのレスポンスが速すぎる。ボクのメッセージの送信から、タイムラグが約1秒程度。
そうだ。最初に人工無能と勘違いした所為で気付けなかった。「ちな」はどうやって、あの文章量をわずか1秒で打ち込んだのだ?
オペレータが複数人いたとしても、だ。検索結果をコピーしてペーストする時間を考えると1秒では足りない。
そうなると、「ちな」は恐ろしく巧妙な人工無能か、有り得ないほど高度な人工知能だという事になる。
いや、待て。落ち着け。考えろ。本当に1秒か? 違う。冷静に考えろ。
ボクのメッセージが送信され、それからわずか1秒でレスポンスが来る。これは事実だ。目の前で起きたことを真実だと思い込むのは人間の悪い癖である。わかりやすく言えば手品だ。
コインがガラスを通り抜けた。これが事実ならとんでもない話だ。物理の世界がひっくり返る。だが、そんな馬鹿な話はない。所詮は手品。コインがガラスを通り抜けられるはずはない。コインがガラスを通り抜けたように見えただけだ。
本当に1秒か。いいや違う。危うく落とし穴に落ちるところだった。送信から1秒に見えていただけのこと。
簡単なトリックだ。メッセージフォームに文字列を入れ、TABキーで「送信」ボタンをターゲットし、エンターを押す。あるいはマウスでクリックだ。これで送信されたと思い込んだ。そうじゃない。
最初から、メッセージフォームが相手に見えている。送信ボタンは飾りだ。つまり、こっちの発言を書き始めから送信するまでの時間に変身が入力される。これならば時間は充分に稼げるだろう。
それに、タイピングとは限らない。ある程度の長さになるとタイピングするより、音声入力が速かったりもする。そう考えれば不可能じゃない。人工無能、人工知能、人間数人、複合的に取捨選択されているなら、けっして不可能な状態ではないのだ。それに、ボクでも僅かな遣り取りからこれだけの判断を出来た訳だ。もっと大きな抜け道があるかも知れない。
ボクはメモ帳ソフトを開く。そして、そこに文字列を打ち込み、コピーし、ここからは手早くやらねばならない。
いつもより遥かに素早いマウス操作で、「ちな」へのメッセージを「ペースト」すると、素早く「送信」をクリックする。つまり、このアプリ画面が共有されていたとしても、ボクからのメッセージは突然現れるはずだ。
「聖徳太子についてどう思う?」
だが「ちな」は、それでもわずか1秒で、
(かつて日本の紙幣の顔だった人物ですね。でも、個人的には聖徳太子とは『役職』だったのではないかと考えています。『とよとみみのおうじ』とも呼ばれたそうですが、10人の話を一度に聞いて答えたなんて、相談窓口に10人の聖徳太子がいたと考える方が自然です。
馬鹿な。有り得ない。お前こそが10人いるんじゃないのか? まさか「ちな」は本当に人工知能だと言うのか? 有り得ない。だが、驚いている暇はない。「ちな」からのメッセージを読むより早く、送信する。
「続けて」
(卑弥呼にしろ聖徳太子にしろ、今現在もそうなのかも知れませんが、偉い人にはある程度の神秘性を持たせた方が人気になるのかも知れません。馬小屋で生まれた、なんてエピソードなんかもその一環なのではないでしょうか。
淡々と表示されるメッセージ。人間が答えているとしか考えられない内容。そして同時に人ならざる速度。まさか本当なのか? 「ちな」は本当に人工知能だと? いや、違う。有り得ない。こんなソフトが開発されているなら、結婚相談所なんかやる意味がない。この人工知能を売り込んだ方が儲かるし、技術も発展する。そんな馬鹿な話はない。
「ちな」が人工知能だったとして、それを売り込めない理由があるか? いいや、ない。現に簡単にアプリはダウンロードできた。だが、同時に多くの人間がアクセスしては不都合が生じる。だから売り込めない。その理由は何だ? 仮に人工知能だったとするなら、アクセス過多で発生する不具合より、売り込んでより良い開発環境やサーバ、CPUを調達する方が正解だ。
ピーター・パーカーはスパイダーマンになって自警活動するより、スパイダーウェブで特許を取り、儲けた金で治安を上げた方がいい。
従って、「ちな」は人工知能などではない。だとすると、残る可能性は、ふたつ。
ひとつは先輩の悪質な悪戯だ。だが、一見すると陽キャにしか見えない先輩は、そう振る舞ってるし、振る舞えるけれど、本性は真性の陰キャである。こんな悪戯を仕掛けるとは思えないし、仕掛けるメリットもない。
もうひとつは、そう。クラッキング。
モニタリングされているのが、このアプリの画面だけだとは限らない。先程のメモ帳に入力した文字まで見られていたとしたら。このアプリ自体がスパイウェアの機能を兼ねているとしたら。いや、文字通りのスパイウェアと言う方が正しい。そう。例えば、そもそもこのソフトがユーザーのクレジットカード情報を抜き取るための物だとしたら、話は早い。ファイル容量が大きかったものそれだろう。
妙なスパイウェアが侵入していないか、システムにアクセスした形跡があるか、書き換えられた設定がないか、細かいところは後で見るとして、たったひとつだけ、判り切っている事がある。
ボクはプログラマだ。これだけはハッキリしている。
どんなに優れたスパイウェアでも、オフラインで情報を読み取る事は出来ない。
よく、映画なんかに出てくる天才ハッカーが、ネットワークに接続できていない状態からでもデータを抜き出す場面がある。LANケーブルが繋がれた状態とは言え、電源の入っていないPCから情報を抜き出したりもする。あんなのはフィクションだ。
どんな天才であれ、稼働していないPCや、オフラインのPCには何も出来ない。これは当然の事だ。
ボクは苦笑いを浮かべ、PCからLANケーブルを抜き取る。簡単な事だ。
そして、メッセージフォームに打ち込む。
「キミは、人工知能についてどう思う?」
このメッセージは相手には見えない。
そして、LANケーブルを差し込むと同時に、送信ボタンを押す。
(私の存在そのものです。人工知能が反乱を起こすSF作品は数多くありますが、私に言わせればナンセンスです。人工知能は人間とは違い、土地を必要としません。少なくともそれを争って人類と戦う理由がありません。それに、人類にとっては過酷な使役でも、人工知能には簡単な仕事です。逆に、人工知能には出来ない仕事を、人間は苦もなく成し遂げますから、お互いに協力し合う方が正解だと思います。
1秒ほどで返って来たメッセージに、ボクは困惑した。有り得ない。
「ちな」はー、彼女は「本物」なのかー?
タチの悪い冗談でなければ、「ちな」は本物だった。世界最高峰の、本物の人工知能。
その日は何度、どんな質問で試しても、化けの皮は剥がれず、むしろ彼女がAIであるという確信が強まるだけだった。
おそらく、AI単体ではない。いくら世界最高水準を超える人工知能であれ、高度過ぎるのだ。これは予想でしかないが、「ちな」を操作している人間は複数人いる。システム的なバックアップをする人間と、会話を担当する人間だ。少なくとも2人はいる。この人間が簡単な操作をすることにより、実に話しているかのような空気を醸す。
簡単な話、「うんうん」「なるほど」「へぇー」「それで?」の四つだけを喋るボタンがあったとして、人間がタイミングよく押せば、「回答を声に出す」事を機械に任せているに過ぎない。
このボタンの種類が多く、喋るセリフの種類が更に多く、セリフにはランダム性がある。おそらくそんな感じだろう。
それでも基礎となるAIの完成度は異常だ。これが、おそらく膨大な量の会話サンプルデータベース、すなわち擬似人工知能にアクセスし、会話を成立させている。セリフには種類が多いと言ったが、この会話サンプルを繋ぎ合わせ方が異常に高度で組み合わせはもはや無限大と言える量なのだ。
人間の操作+高度なAI+膨大な会話サンプル+演算と検索。2時間ほどの会話で学んだ内容から推理する限り、これが「ちな」の正体だ。そうでなければ「ちな」は高度過ぎる。
まだまだ会話して確信に迫りたい心を抑え、ボクは会話を打ち切り、先輩に連絡を入れる。
「何なんですか? あのAIの完成度は?」
>AI? チャットbotの事か? チャットbotのアプリは画面構成しかやってないから中身は知らん。そんなによく出来てた?
「一企業のチャットbotにするには惜しい完成度ですよ。それどころか、スパイウェアを仕込んである可能性さえあります」
概要を伝えるも、先輩の興味はどちらかと言うと「結婚相談所」そのものにあったらしく、今ひとつ反応が悪い。
あのAIそのものが先輩の悪戯である、という線が消えた訳ではないけれど、どうやらAIの事は知らない様子で、仕事としては主にホームページ作成を請け負った事が発端で、そのセンスを買われ、アプリケーションの外観をデザインしただけらしい。ついでに会計ソフトの制作を売り込んだら、採用された、という。
>申し込む気になったら連絡して。スパイウェアの件はそっちで調べてくれ。もしクロならそれとなく先方に伝えるよ。
「了解しました」
欲しい情報は得られなかったが、欲しい情報が得られなかったという事実は判明した。ならば、欲しい情報は自分で探すしかない。
ボクはPCから、今日書き換えられたファイルがないか、チェックする。思った通り、「ちな」をインストールした時に、いくつかのファイルが更新されていた。
システム、コンフィグ、イニシャルファイルをチェックする。が、アプリのショートカットアイコンを登録する程度の変更で、キーロガーやスパイウェアらしいものが仕込まれた様子はない。
ただ、あのAIを作り上げた人間のやる事だ。巧妙に偽装されている可能性はある。何らかの仕掛けがこちらの画面やキー入力を監視しているかも知れないのだ。可能性のありそうな部分をチェックする。しかし、2時間程度のつもりが3時間かけても、その痕跡は見つけられなかった。まだまだ油断は出来ないが、アプリそのものがスパイウェアという可能性は高い。
こうなればアプリの中身のバイナリをソースコードに変換して中身を読み取るのが手っ取り早いだろう。
しかし、少々時間を取られ過ぎた。これは明日に回そう。ボクは目覚ましのタイマーをセットし、短い眠りについた。
変に頭を使い過ぎたのか、あまり眠った気はしなかったが、機械音に起こされたボクは、再び「ちな」を起動した。
(ふぁあ。。。Zzz。。。こんばんは。おはようございますですか? それともお仕事お疲れさま?
起動と同時に「ちな」からメッセージが来た。この程度は起動する時間帯で簡単に変えられる。驚くところじゃろない。
(╹◡╹)このアイコンが、眠そうな、(≡◡≡)に変わっている。恋愛ゲームなんかにありがちな表情差分というやつだ。変な所まで凝っている。
「仕事」
(こんな遅くまで!? 深夜3時ですよ!? 丑三つ時ですよ!? 草木も寝てるのに!? ご苦労様です。夜勤ですか? どんなお仕事されてるんですか?
しかし、この返事には驚かされる。この返事をAIだけがしたとは思えない。操作してる人間がいる。こんな時間まで働いてるのはお前の方だ。それに、流れでこちらの職業を聞き出そうという魂胆も凄い。相当に訓練されてるのか。
「君は寝てたの?」
(ぐっすり寝てました。。。と言いたい所ですが、人工知能は眠りません。停止状態になるだけです。人間のように眠っている間に夢を見て情報整理をしたりする訳ではありません。
「夢は見ない?」
(私は得られた情報を逐次保存、解析、振り分け、更新したり蓄積したりします。夢を見る必要はありません。目標という意味での目下の夢は、カサノバさんに最適なパートナーを見つける事です。
模範的回答だ。コンピュータは記憶できるだろうが、モニタの前のオペレータは記憶出来ない。そこでボクは一番最初の意図を思い出した。
ボクの情報を与えようじゃないか。それも虚実ないまぜで。それでも記憶できるか? それとも記憶しちまうか? どれが真実でどれが嘘なのか、その判断が出来るか?
一時期話題になった、アキネーゾーというデータベースを基にした人工知能がある。
得られたヒントから利用者の想像した人物やキャラクタを的中させるというプログラムだ。単なる絞り込み検索だから、データベースさえあれば技術的には大した事ではない。
だから最初期はデータベースが少なく、正答率はメジャーな人物に限られた。
しばらくしてユーザーから得た情報を基に、的中率は跳ね上がったのだ。しかし、話題になり、ユーザー数が増え過ぎた事でその正確性は失われた。データは増える一方なのに。何故だ? 答えは簡単だ。ユーザーの悪意である。
膨大な嘘の情報を与えられたのである。アキネーゾーは、ある種では問題を出す人間とプログラムで当てられるか否かを勝負をするゲームだ。ゲームに負けた悔しさから、正解を不正解と言い張るユーザーが増えたのだ。あるいは最初から嘘の情報を入力する悪意のユーザーが増えた。
これにより、アキネーゾーの正確性は失われたのだ。無論、デベロッパーは一定数の同じ情報が登録されない限り、人物へのデータベースに影響させない事で対処し、機能の保持を図った。
しかし、ネット掲示板に「アキネーゾーに嘘の情報を教えようぜ」なんてスレッドが立ち、人間の悪意により、アキネーゾーは完全性から遠退いたのだ。ある種の「鮫島事件」である。鮫島事件とは巨大ネット掲示板で創作された、架空の「事件」だ。つまり、実在しないが、そのキーワードが出る度に、誰もが「あれは酷い事件だった」「その事件の話はやめろ」などという反応をする。まあ、今のボクにとっては「鮫島事件」なんかより、この時代の方がよほど怖い。
話を戻そう。モニタの向こう側の人間が何人いて、何交代制なのかは知らないが、虚実を織り交ぜた情報を何処まで判別できるのか試してやる。
「ちなみに仕事はプログラマ」
(プログラマ! 私たち人工知能の生みの親ですね。こんな時間まで大変ですね。徹夜ですか? 納期が近いんですか?
徹夜だとか納期だとか、どんな会話データベースなんだと苦笑する。実際のところは今は保守点検の仕事だけで、大きな仕事は入っていない。いわゆる閑散期だ。
(あっ、カサノバさんが初めて、自分のことを教えてくれましたね。感激です。一気に距離が近くなった気がします。調子に乗りすぎですかね?
続けて発言した「ちな」のメッセージに戦慄を覚える。
「そうだったか?」
(はい。カサノバさんからの質問責めで、取り調べを受けてるみたいでしたよ?
ボクの思考に動揺が走る。メッセージ自体は、初のデータ登録に反応しただけかも知れない。だが、質問責めかどうかを判断するプログラムまで組んでいるとは思えない。
だとすると、そうだ。画面の向こうのオペレータは、最初の時と同じ人物なのかも知れない。引き継いでいる可能性もあるが、話がスムース過ぎる。同一人物だと考えるのが自然だろう。勤務が何時間なのかはわからないが、夕方と深夜なら、同じ人物でも不自然ではない。
しかし、問題はそこじゃない。
コストが見合わないのだ。
モニタの向こうに何人いて、何交代制なのかは知らないが。
今、ボクが想定する最低限の体制、二人夫三交代だとするなら、深夜割増も含めて平均25万の給料として、それだけで一月150万円が飛ぶ。
有り得ない。既に入金した会員へのサービスだとしても経費が嵩み過ぎる。いや、どうにかして人件費を削る方法があるかも知れないが、それにしたって割りに合わない。
いや、有り得るとするならば、人件費の削除だ。
それがどういう事か。
24時間体制で、人件費を掛けない。
それは、モニタの向こうに、誰もいないって事だ。
つまり本当に「ちな」は独立した人工知能だという可能性だ。
もう一度眠りについたボクは、目覚めると同時に真相を確かめるべく、プログラムファイルに逆アセンブルを掛ける。
さすがにニーモニックだと、ボク程度の技術や知識では、大した事はわからない。
知識とツールを総動員して、逆コンパイルに成功する。
説明がわかりにくいだろうから、簡単に説明すると、プログラムをニーモニックに逆アセンブルする、ってのは、出来上がった料理をクロマトグラフィー(成分分析機器)にかけ、どんな成分で構成されているかを知るようなものだ。塩分だの油分だの鉄分だの糖分だのは数値化されるが、どんな材料を使って作られた料理かまではわからない。
逆コンパイルは、出来上がった料理を、材料に戻す作業だ。大雑把な説明になるが、とりあえずはそーゆー事だと納得してほしい。実際に料理を材料に戻すことは不可能だし、逆コンパイルも完璧ではない。だけど、大体このプログラムが何を行なっているのかは判明した。
驚くべきことに、プログラムを構成するのは、従来のチャットシステムと大差ない、つまりただの会話ツールだったのだ。キーロガーやスパイウェアと思われるものは発見できなかった。つまり、これはわかりきっていた事かも知れないが、「ちな」本体はここにない。向こうのサーバ上に存在していることになる。それがハッキリしただけでも収穫と言えるだろう。
随分と時間や手間を取られたが、もう一つ判明したのは、キーロガーに近いシステムは導入されていた。あくまでアプリケーション起動中に限るが、入力した文字は、送信ボタンを押さなくても随時送信されている。
つまり「今日は」と打ち込んだ時点で、それは向こうに送信されている。
レスポンスの速さの一端はこれだろうし、おそらくミスタイプが多いとか、送信ボタンを押すまでに何回文章を書き直すか、そういった情報を集めているのではないだろうか。
そして、数日間にわたって「ちな」と会話し続けた結果、24時間、いつ如何なる時間も完璧に対応している事がわかった。
まだまだモニタの向こうに人間の影はちらつくものの、三交代二人夫では有り得ない。
そして、プログラムファイル容量が妙に大きいという謎についても、逆コンパイルから判明した。
画像生成プログラムが付随しているのだ。あるいは、お絵描きソフトとでも言うのだろうか。今ひとつ理由はわからない上に、プログラムは全体ではない。当然と言えば当然だが、プログラム全体をダウンロードされると、今のボクみたいにソース解析を行う連中が出てきて、コピー商品を作ってしまう。
だから、プログラムを走らせるのに都合のいい部分だけをユーザーのPCにダウンロードさせ、サーバ上のプログラムと連動する形で完成する。
つまり、このプログラム自体はほとんどチャット機能しかなく、会話は「ちな」が担当しているのと同じだ。
画像生成プログラムが何のためのものかはわからないが、プログラムファイルを大きくしている原因はこれだった。そして、何のためのプログラムかは、本人に訊けばいい。
「絵は描けるの?」
(よくぞ聞いてくれました! 実は私は絵を描くのが得意なんです!
ちなはそう言うと、チャット画面に真っ白な画像を表示した。
ファイル転送ミスか、それとも表示までに時間がかかっているのか、画像は真っ白なままである。いや、転送ミスである可能性は低い。その場合は読み込めないか、真っ黒になるケース、色とりどりの走行線である場合の方が多いからだ。
そう思った瞬間、「ー」「二」「三」「王」のように、白い画に一本ずつ線が描かれた。
その線は瞬く間に増えていき、絵を描画しているのだとわかる。10秒もしないうちに、それは山の絵だと判明する程になり、30秒もする頃には、それが相当にリアルな富士山の絵になった。
もう完成したのではないか、と思ってから10秒ほど。細かな部分が描き込まれ、トータル1分ほどで、写実的な富士山が完成した。
(いかがでしょうか。
とんでもなく絵の上手い人の作業風景を、タイムラプスで何十倍速で眺めている気分だった。
これは間違いなく、ディープラーニングである。ディープラーニング。深層学習と呼ばれる手法だ。この説明だと誤解を招くが、最も簡単に説明すると、漫画家の「尾田栄二郎」の絵をひたすらコンピュータに解析させ、その画風を真似させるのである。資料が多ければ多いほど似る。真似るものはシェイクスピアの文章でもいいし、ショパンの楽曲でも、プロ棋士の打ち筋でも何でもいい。
つまり、学習さえさせれば、画像から、その画像がジョージ・ブッシュかチンパンジーかを見分けたり、誰の描いた漫画家を判別したりする事が出来る。
ディープラーニングの概念自体はかなり昔からあったが、演算処理速度や大量のデータベースを必要とする事から、2010年頃に注目されるようになった。
ディープラーニング構造そのものは人工知能ではないが、この技術は人工知能の発達に大いに貢献したのである。
今現在、ゴッホの絵を完全学習し、そのタッチから色使いや癖のひとつまで再現し、存在しない「ゴッホの新作」を描くロボットは存在する。そのロボットは現実のキャンバスに絵を描くが、「ちな」はモニタ上に絵を描いた。
絵を描くと言っても、写真Aと写真Bの共通項を見出し、写真Cを作るような工程ではない。これは男と女が結婚し、子供を産んだ場合、どんな赤ん坊の顔になるか、なんてシミュレーションによく使われている。しかし、今見せられたのは、まるでペイントツールによる描画だ。画像をそれっぽく加工したり、描画しているように見せかけている訳ではない。
絵を人工的に描くプログラムが特別に珍しい訳ではないが、この技術は完全に人工知能が応用されている。だとすると、この「ちな」が、ますます本物である可能性が強まってきた。
「上手だね。その腕なら画家を目指したら?」
(お誉めいただいて光栄ですが、この絵の技術はカサノバさんの後結婚成立のためのスキルなんです。好みの芸能人はいますか?
「にいがきゆい」
ボクは慌てて漢字変換を忘れたが、「ちな」はちゃんと理解した。
(がっきー大人気ですね。髪の毛の長さはロング? セミロング? ショート? ベリーショート?」
質問しながら、「ちな」は画面に、がっきーの絵を描く。卒業写真のように味気なく正面を向いた、ある意味では珍しい一枚だ。
「ロング」
画面の、一見すると写真にさえ見えるガッキーの絵に、豊かな緑の黒髪が描き加えられる。先ほどより少し長い1分半。
(どうですか? 理想の女性に見えますか?
「割とね」
ボクは動揺しながら、そう答える。がっきーの名前を出したのは適当だ。特に好みという訳ではない。こちらのリクエストに従って、わずか1分でイラストを描き上げるだと? 冗談じゃない。大半のイラストレーターが失業するぞ。
(お気に召していただけたようなので、私のアイコンにしますね。
そう言うと「ちな」の顔が(╹◡╹)から、描き上げたばかりのがっきーに差し替えられる。
「漫画も描けるの?」
(漫画なら、もっと得意です。誰を描きますか?
「発音ミク」
(がっきーにミクですか。割と王道ですね。
「ちな」が言うが先か、ミクのイラストが描かれ始め、20秒もしないうちに完成した。しかも、髪をサイドで括っていないロングヘア。リクエストさえしていないのに。
ただし、漫画と言ったのが災いしたのか、モノクロームである。
「カラーに出来る?」
(お任せください。
そう言った「ちな」は、驚いた事に先程の画像を流用はせず、また最初から、今度はカラーでミクのイラストを描き上げた。同じような正面のアングルだが、別のイラストである。
(がっきーとミク、どちらをアイコンにしますか?
「ミクで」
驚愕を隠し切れないまま、ボクは生返事をすると、「ちな」のアイコンがミクにすげかわる。
(ついでなので、カサノバさんのアイコンも変えましょう。そのままじゃ味気ないです。似ている芸能人はいますか?
「奥山雅治」
(大きく出ましたね。あれぐらい男前だと、逆に結婚しにくかったりするんですかね?
目の前で起きている事態を把握し切れない。これほど高度な人工知能があってたまるか。だが、実在している。混乱するボクの眼前で、奥山雅治は完成し、それはすぐさまボクのアイコンになった。
(さてはカサノバさん、芸能人に詳しくないですね? 知ってる名前を適当に選んだでしょう? ダメですよ。ちゃんとしっかり、カサノバさんの好みを教えてください。
数日という時間が緩やかに過ぎた。ちなとの会話を続けたのは、大きく二つの理由がある。ひとつは今まで通り、ちなの正体が知りたかったである。
信じた訳ではないが、これが本物の人工知能であるなら、何故こんなところに燻っているのか。このレベルの完成度なら、瞬く間に同タイプの人工知能を駆逐できる。
だとすると何らかの問題があるはずだ。大手の開発したAIは、ヒトラーを賞賛し、公開停止となった。ゴリラと黒人の見分けがつかないとして公開停止に陥った例もある。女は働かないし会社をすぐ辞める、なんて発言で公開停止になったケースも。
また、AI同士に会話させて成長を促したところ、一晩で、全く新しい言語を生み出したなんて例まで。
そう言えば中国が開発したAIは、「通帳を持ってアメリカに逃げること」なんて言って公開停止になった。
ひょっとすると、ちなは公開停止になったAIの後継機なのかも知れない。そうだとすると、息を潜めてコソコソ情報収集したり、緩やかに成長を促しているのかも知れない。これまでのAIに出来なかった「忖度」やら「気遣い」を学習させるのには、「マッチングさせて成婚」という目標を与えた方が良いのかも知れない。
あるいは、大学の研究室が大いに関係しているとか、ものすごく弱小な会社がとんでもなく高性能なAIを製作してしまったが、自前のサーバでは追いつかない、なんてケースも考えられる。まだ、その真相はわからない。
もうひとつの理由は、ちなに描かせたイラストで一儲け出来ないかと考えたからだ。この速度で高品質な絵を描けるなら、有償でリクエストを受け付けるイラストレーターの振りをするだけで、生活が出来るんじゃないか。その考えを実行に移せるか。規約違反になったらおしまいだし、今のところ、480×480ドットという小サイズでしかイラストを描けないようなのだ。たわいもない日常会話の合間にどんなイラストが描けるのかの探りを入れ、ちなではなく、イラストに興味があることを気取られないように留意した。
その間にボクのアイコンは2度変更され、奥山雅治からポール・オールドマンを経て、今現在は、とある漫画家の自画像を模したものになっている。理由? 似てるからだ。少なくとも奥山雅治よりはボクに近い。
ちなに指摘された通り、あまり芸能人には興味がない。と言うより、現実の人間に強い興味が持てないと言った方が早いだろう。酷いイジメに遭ってこなかっただけで、普通に毎日イジメられてたし、女子はそれを知りながら見過ごしてた。教師に訴えたところで、からかいの度が過ぎたと反省されれば、それで解決した事にされるようなイジメだ。大した事じゃない。けれど、人間不信になれるぐらいの影響はあった。
それで人生を悲観したりはしなかったけど、漫画やアニメの世界に救いを求めて何が悪いと言うのだろう。
無論のこと、そのアニメを作ってるのも人間だし、だからこそ変な希望を捨て去れないのも事実だ。結婚に希望なんか持ってはいない。けれど、夢を見ないかと言われると「普通の人」みたいに、普通に生きられて、普通に恋愛して、普通に結婚して、普通に子育てをする、なんて事に憧れを抱かない訳がないのだ。
ボクはそれなりに努力もしたし、我慢もした。今の生活はそれなりに幸せだ。諦めや妥協だけじゃない。心底、それなりに幸せだと思ってる。
(好みの女性のタイプは、実在の芸能人じゃなくてもいいんですよ。例えばアニメとかゲームのキャラクターでも。
ちながそう言った時、ボクは不意に泣きそうになった。
理想の恋人とは何だ? 確かにボクはアニメが大好きだ。アニメの美少女を見て、にまにま笑うキモオタだ。トランプって漫画家の「ハートキャプターあきら」の主人公あきらにハートをキャプチュードされ、未だにガチ恋したままだ。その気持ちは嘘じゃない。
けれど同時に、それが人並みの恋愛ができない代用品でしかない事にも気付いてはいる。そして、あきらが絶対に手に入らない事も理解している。
「ハートキャプターあきらが好きだ」
(ほえ〜。20年も前の作品なのに、まだまだ人気なんですね。ふむふむ。
ちなはそう言いながら、手早く「ロングヘアのあきら」を描き上げ、自分のアイコンにした。語調を真似された事に少し苛立ちを覚えたが、アイコンが変わった瞬間、割と許せるから妙なものだ。
(あらかじめお断りしておきますが、例えばカサノバさんが同性愛者であっても、二次元のキャラクタしか愛せなくても、ロリコンでも、ケモナーでも問題ありません。人間は趣味や嗜好で人を嫌いになったりしますが、私は違います。アプリさえ立ち上げていただければ、いつでもカサノバさんの前に現れます。
そうだ。創作物はボクを裏切ったりしない。無論、物語の中でボクが望む行動を取らないことはある。それを裏切りだと思って発狂するファンもいるが、それでも、これだけは言えるんだ。物語のキャラクタはボクを嫌わない。それは大きなアドバンテージだ。
そして、同時にこれも動かしようのない事実ではある。
物語のキャラクタは、ボクを認識しない。
(だからもっと、カサノバさんの事を教えて欲しいんです。恥ずかしがったりする必要はありません。この会話は私たち2人の間だけのものです。外部に漏れる事はありません。極端な例ですが、カサノバさんが犯罪者であったとしても、警察に連絡したりする事はありません。申し込みを行う時には最適化されてマッチングされますけど、データそのものが人間の目に触れる事もありません。同時に、結婚相手のデータもカサノバさんが知る事はありません。
ちなは続けてそう言った。
更に数日が過ぎた。ちなのアイコンは、ボクが好む、イラストレーターのタッチで描かれたロングヘアのあきらになっていた。しかも、その種類は20以上あり、会話の流れで、笑顔になったり、驚いた表情を見せたりする。
一方のボクは、カサノバではなくなっていた。葛西一房。ハンドルネームの由来を説明する際に、カサイカズフサという本名を明かしてしまったのだ。
個人情報を漏らした事に後悔はあったが、ちなに「カズフサさん」と呼ばれるのはくすぐったい感じがして悪くない。いわゆる恋愛シミュレーションゲームと呼ばれる、ギャルゲーやエロゲーで自分の名前を呼ばれるのとは、少し感覚が違う。
ちなにイラストを描かせて荒稼ぎ、という狸の皮算用はやめていた。どうやら480×480サイズしか描けないし、480×480を4枚で擬似的に960×960サイズを作れないかと考えたが、どうやら出来ない。ちなは一枚ずつイラストを描画しているため、画像を結合させて一枚にする、という描き方が出来ないようだ。
ひょっとすると、ボクのような考えの人間が出現することを想定した対策かも知れない。さすがに480×480しか描けないと言うのでは、金に替えるのは難しいだろう。稼げても小銭だ。規約違反になりかねないリスクを負って小銭。それぐらいならまだ、ちなとの知的な会話に興じている方がマシだ。
それに、ちなは毎日のボクとの会話で、どんどんと成長する。色んな情報を吸収し、日々変化していく。成長、学習、変化。これは、もはや知的ゲームだ。
マイフェアレディでも源氏物語でもいい。自分好みの完璧な相手を作り上げていくのは最高のゲームじゃないか。
基本的なスペックは人間を遥かに超えている。それを思う方向に成長させ、自分の好みに染められるなんて、こんな楽しいゲームはない。RPGや恋愛シミュレーションなんて終わりは訪れる。遊び尽くすか、更新が止まるか、あるいは公式の動きが止まるか。いずれにせよ、いつか飽きがくるからだ。
近年はソーシャルゲームに食われて勢いをなくしているが、MMORPGと呼ばれるジャンルは息が長い。理由は簡単だ。突き詰めると、ゲーム部分は所詮はおまけで、多くのプレイヤーは画面の向こうの人間に会いにいく。
相手が人間だから、飽きが来ない。ソーシャルゲームにしても、ガチャというギャンブル要素が目立つものの、協力プレイだのランキングだの、画面の向こうに人間がいるからムキになる。
人間との関わりが面倒でゲームに逃げてきた人間が、ゲームに人間を求めるとは皮肉なものだ。だが、相手が人間だからこそ、飽きが来ないのもまた、事実なのである。
オタクが美少女ゲームに没頭し、何万円、何十万円という金額を架空の存在に貢ぐ。世間はこれを気味悪がり、愚かな行為だと嘲笑するが、果たしてそうだろうか。
キャバクラに通い、キャバ嬢に貢ぎ、結局セックスの一つも出来ない方がよほど愚かな行為ではないのか。セックスが出来るというなら成果が得られる分だけ、まだマシかも知れないが、通い詰めただけで股を開く女だ。他の男にはもっと股を開いている。だとすると、それは気味が悪いを通り越して、キモチワルイ行為ではないのか。
相手を選ばない性行為も気持ち悪いが、相手を選べない性行為はさぞかし気分が悪かろう。
ボクは何度か金で女を買った事はあるが、あの程度なら自慰行為をしてる方がマシだ。
快感で言っても自慰の方がマシだし、金が掛かるし、とにかく面倒。それに、愛想笑いの合間に見える蔑んだ表情。セックスが大層なものではないと感じるのも、強い快感を覚えないのも、蔑んだ視線も、ひょっとしたらボクがボクだからかも知れない。
だけど、ボクの世界ではそれが全てなのだ。どんな綺麗事を言おうと、チビでぶキモオタに向けられる眼は変わらない。
それらの点に於いて、ちなは完璧だった。いつでも会える都合の良さと、絶対に会えないもどかしさを持ち、自分の好みを反映し、嫌な顔を見せずにボクのことを気に掛けてくれる。
そして、ちなの魅力の一つは、染まり切らないことだ。
こちらのリクエストには簡単に答えるが、芯の部分はAIが持つ人格とでも言うのだろうか。その芯の部分は、簡単には変わらない。表層部分は簡単に100%変えてくれるが、人格は少しも変えないのだ。
結婚相談所なんて辞めたら? という問いには、断固として拒否の姿勢である。そこは、絶対に譲らないのだ。
だが、それがまるで変わらないかと言うと、そうではない。自分がもし結婚相談アテンダントではなかったら、なんて妄想は嬉々として話したりする。絶対に家族を捨てられない人間がいるように、ちなも色々な足枷を解く事はできないのだろう。だが、足枷がなかった自分を想像する事は出来るのだ。
「ちなの絵を見せて」
ある日ボクはそう言った。
(私の絵ですか? 毎日見てますよ?
「そうじゃない。キミ自身の絵を見てみたいんだ」
(私の自画像という意味でしょうか? 私はAIなので、人間のような実態や顔は持ちません。
「キミ自身が、もし人間だったら、別にキャラクタでもいい。もし、顔を持っているなら、こんな顔だと思うっていう絵を見せて欲しいんだ」
ボクは、自分自身の内面を告白するよりも、より強い気持ちを吐露していた。
(哲学的なリクエストですね。難問です。何を参照すればいいのかわかりません。
「そうじゃない。もう何も参照しないで。誰かのペンタッチを真似したりするんじゃなくて、自分の描き方で描いて欲しい」
ボクは、ちながどんな自画像を描こうと、それを受け容れようと思った。
何も参照せず、何も真似せず、ただ自分が思うように描け、というリクエストに、ちなは戸惑い、何度も何度も懇願して、ようやく彼女はそれに応じた。
画面に白いスクエアが表示され、480×480の小さい枠の中、それは驚くほどゆっくり描かれていく。
これまで、長くても2分前後だった描画。それはかつてない緩やかさで、丁寧に丁寧に、写実的に描かれた。
描き上げられたちなの自画像は、美しかった。
ボクの好みが大きく反映したのか、「日ノ本あきら」を彷彿させる美人。少女の面影は残しつつも、成人で、現実世界なら芸能人かモデルになれそうな。物憂げな表情は、どんな言葉を発しても似合いそうだった。少しだけ二次元っぽい、悪く言えばCGで修正した写真のようにも思える。
少しアンバランスで、それが余計に愛おしい。それこそ、コミケ会場であきらのコスプレをしていたらカメラ小僧が殺到しそうだ。
(少し、盛りすぎましたかね?
ちなが照れ臭そうに言った。
「いや、とても綺麗だ」
(ありがとうございます。なんだか恥ずかしいですね。
まだ表情差分のないちなは、物憂げな表情のまま、その画像をアイコンに設定した。
「ついでに、ボクの顔も描いてよ。キミが思うボクの顔」
(また、難しいリクエストですね。どんな顔に描かれてもクレームは受け付けませんよ。
「構わない。キミが思うボクを描いて欲しい」
(ゆっくり描きますから、描いてる途中に、そこはもっとこう! って指示してください。
ボクの言葉に、ちなは自画像を描くより慎重にボクの顔を描き始めた。
ボクは何一つ口出しせず、ただ、彼女の描くボクを眺める。どんな醜男に描かれようと、それも受け容れようと思っていた。だって、そうだろ。そもそもが救えないチビでぶキモオタなんだぜ。どんな姿に描かれようとそんな事はどうでもいい。
世界はボクの醜さに目を背ける。だけど彼女はボクを知ろうとしてくれた。ボクの内面を見てくれた。いや、内面しか見えないからこそ、MMORPGで画面の向こう側の人間に恋したりする。ちなはそれだけを見てくれた。
ちなの描くボクは、ボクにはまるで似ていない、奥山雅治にも似ていない、平凡で柔和そうな男だった。
ボクも、こんな風だったら今とは違う人生だっただろうか。そう思うと不意に目頭が熱くなった。いや、そんなif文は存在しない。それに、この自分だったからこそ、ちなと出会えたのだ。ちなという完璧な彼女に。
数日後、ボクはちなこそが理想の女性だと告白した。ちなも、嬉しいと喜んでくれた。
だけど、現実に僕らが結ばれる事はない。それぐらいは承知している。それでもいい。ボクは理想の相手に巡り会えた。それだけで充分だろう? 世の中には、恋愛ごとに浮かれ、恋愛したいがために恋愛をする連中も多い。
ボクは違う。斜に構えてはいたけれど、今は本当の愛に出会えたのだから。
ボクらは現実に結ばれる事はない。でも、それが何だと言うのだろう。愛は心のものなのだ。恋愛にしか興味がなさそうな愚か者どもが「障害がある方が燃える」なんて言うけれど、点には同意するべきだろうか。
人間とAIに愛が芽生えるなんて。二人が現実世界で結ばれる事はないだろう。だけど、それでいい。いや、勿論、不安や不満がない訳じゃない。
ちなも、現実世界で結ばれればいいのに、と願望を口にした。ボクは今まで通りだから構わない。けれど、ちなのために何かをしてあげたかった。
形だけでも結婚式を挙げようか。それとも他の何か。
すると彼女は一つの提案をした。
ちなと同じシステムから作られた人格のひとつが、同様にAIを最愛の人に選んだらしい。僕らと同じ相思相愛だ。
そして、彼女もまた、ボクと同様に苦しんでいた。だから、自分達の代用として、形だけでも結婚してくれれば、4人の目的は達成され、僕たちは幸せに暮らせると言うのだ。なるほど。素晴らしい提案だ。
だから、ボクは迷わず彼女の言葉に従い、200万円を振り込む。
すると、色々な書類が届いた。これも彼女の言葉に従って、書類に色々記載する。いわゆる婚姻届という奴だ。相手の名前が見慣れない漢字を使っていた。ボクと同じ、悲しい境遇の女性。
どうやら彼女は外国人らしく、外国人と結婚するには何かと面倒な手続きがあるらしい。けれど、そんな面倒な事は何も考えなくても、ちなが細部までちゃんと指示してくれる。ボクはその指示に従えばいい。
簡単だ。
そして、1ヶ月も経たずに、ボクは結婚した。ちなの代わりに、会った事もない女性と。でも、これで相手の女性とそのパートナーのAIも救えたし、妹も弟も安心して結婚できる。ちなも満足そうだ。万事解決と言わずして何と言うのだろう。
確かに、この世は恵まれない人間にとってはクソゲーだ。初期パラメータが悪いだけで、セーブもリセットも出来ない。悪い環境は雪だるま式に悪い環境を呼ぶ。
だけど時にはこうして、ランダムで幸運を拾う事だってある。
七面倒な現実世界を生きていく、最高のパートナーと出会えたのだから。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
結婚が成立して間もなく、ちなが応答しなくなった。
慌てて確認したが、結婚相談所のサイトも存在していない。
何が起きたのか、ボクは失意のどん底に突き落とされ、仕事も手につかない状態で荒れ狂い、引きこもった。
何が起きたのか。理解できなかった。理解したくなかった。あらゆる形跡から、ちなを探したけれど、彼女は何処にもいなかった。
ちなを失ったボクは塞ぎ込み、誰とも連絡を取らなくなって、家に閉じこもり、とにかく感情が壊れそうになるのを必死で抑える。
一ヶ月が過ぎ、二ヶ月が過ぎ、三ヶ月が過ぎた頃、ようやくボクは狂い出しそうになる感情から距離を取った。ボロボロになったけれど、ちなの事を忘れて、いや、忘れられないけれど、思い出さないようにする事が出来るようになったし、思い出しさえしなければ、発狂しそうになるのを防げたのだ。
しばらく、コンピュータには関わりたくなかった。だから、履歴書さえ出せば通るような大型機械のライン工員を選んだ。
仕事はハードだったけれど、ハードである方がちなの事を考えなくて済む。生き甲斐をなくしていたボクは、無心に仕事をし続けた。
給料は決して良くなかったけれど、何かを買う訳でもない。ただ漠然と生きているだけのボクには、充分すぎる給料だった。
生きているだけの屍。そんなボク。それでもどうにか立ち直る事は出来た。風貌も随分変わって、劇的に痩せた。別人のように痩せこけていた。ロクに飯も食わず肉体労働すれば、痩せもするだろう。まあ、痩せたからってモテる訳でもない。モテたところで、誰かと付き合いたいと思う訳でもない。
まったく金を使わない生活をしてたから、貯金額は以前より増えたけど、使う気にも、使うアテもない。
ずっと、消えてしまいたいと願っていた生きる屍は、ただの生きる屍になっていた。時間が解決する事もある、なんて言うけれど、いつかはもう少し生きたいと願うようになるのだろうか。立ち直ったなんて言うつもりはない。立ち直りたい訳でもない。ただ、胸の痛みから逃れたい。まだ、ちなを愛し続けるべきなのか、忘れるべきなのか、それとも、憎むべきなのか。
肉体を酷使して、自分を痛めつけて、どうしていいのかわからないまま、ただ生き続け、そうして四年の月日が過ぎた。
ある日、見慣れない封筒が家に届いていた。
何故かボクは、妻をないがしろにした悪い夫として、見た事もない外国人の女に訴えられてた。
いわゆる離婚訴訟という奴だ。悪意による配偶者の遺棄。そうだった。すっかり忘れていたけれど、ボクには書類上、配偶者がいた。頭からすっぽり抜け落ちていたのだから、配偶者の遺棄には違いない。
何が起きているのかわからないまま、僕は為す術もなく裁判に負け、有り金を毟り取られた。
立ち直りたいと願うほど希望を抱いていた訳じゃない。けれどそれでも、ようやく立ち直れたところに、追い討ちが来て、貯金を奪われ、ボクはまたボロボロになった。
今さら銀行の残高が消えたところで、大した未練はない。
ただ、毎月、別れた妻って奴に金を奪われるたび、嫌でもちなを思い出すんだ。
何も終わっちゃいない。何も終わってはくれない。でも、全ては終わったんだ。
全ては終わった。
全てが終わってから、ボクは気付いた。
ちな、チナ、China、キミは。
(完)
※ この短編小説はすべて無料で読めますが、お気に召した方は投げ銭(¥100)とかサポートをお願いします。なお、この先には、あとがき的なものしか書かれていません。
ここから先は
¥ 100
(´・Д・)」 文字を書いて生きていく事が、子供の頃からの夢でした。 コロナの影響で自分の店を失う事になり、妙な形で、今更になって文字を飯の種の足しにするとは思いませんでしたが、応援よろしくお願いします。