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オタクはなぜ嫌われるか


 皆さん、こんにちは。裏切るキャラクタは大体好きです。木賃もくちんふくよし(芸名)です。
 本日はいわゆる「オタク」についてお話しようかと思います。

 正直、この「オタク」という言葉の定義は、もはや狭義にとどまる事が不可能な域に来ていると思う。
 そもそも「〇〇オタク」にも現在は色々あって、「健康オタク」やら「運動オタク」「アウトドアオタク」なんてのは、本来のオタクが持っていた「不健康」で「内向き」の性質を真っ向から否定するようなものである。

 この「オタク気質」にも色々あって、健康オタクやアウトドアオタクがそれに矛盾する訳ではないことも理解している。
 要は健康器具、キャンプ用品の何某について熱く事細かくこだわり、語り出したら、ジャンルに関係なくオタクなのだ。
 だが、その「オタク気質」の正体とは何だろう?
 一言で言えば「こだわり」ではないかと、ワタクシは考える。

 そもそも、こだわりを持たないオタクってのは希有な存在だろう。
 では、そのこだわりを外に向けて発露しなければオタクではないかと言うと、そういう訳ではない。近年のオタクは「聞こえるようで聞こえない独り言をブツブツとまくし立てる」みたいな傾向があるけれど、つまりは、聞こえてない・理解されない前提なら、言葉にして発露する必然はない訳である。

 また、専門知識を堂々と面白おかしく雄弁できる人間をオタクと呼ぶ事は少ない。

 つまり、オタクの存在がこれほどまでに一般化し、誰もが何かのオタクであるとさえ言われる現在でさえも、やはりオタクはネガティブなイメージを払拭しきれていないのではないかと思うのだ。

 無論、これは単純に、自分の興味がないジャンルに必死な人を見るとドン引きする、といういたって当たり前の感情なのかも知れない。自分にとって価値のないものに大枚をはたく姿を見れば、当然の反応とも言える。
 あるいは、人類が目覚ましく進歩した知恵の時代よりも、人類が腕力や暴力で存在価値を示した時代の方が長いため、DNAに刷り込まれた価値観なのかも知れない。

 色んな理由がそこにはあるのだろう。
 だが不思議と、「格闘技が好きで、格闘技に打ち込んできました! 空手三段。ボクシングはライセンス取りました!」って人を、格闘技オタクと呼ぶ人は少ない。

 しかし、人は「格闘技が好きで、格闘技の雑誌は全部買ってます! ビデオも3,000本持ってます!」と言う人を格闘技オタクと呼ぶだろう。

 この差は一体何なのであろう。
 例えば、これを「体現者・表現者はオタクと呼ばない」とする説がある。一理ある。漫画家さんが漫画オタクである必要はないからだ。
 しかし、物語や絵柄で「オタクっぽい」と判断されるのが現実である。その漫画家さんが好みの作品を描いているのか、受ける作品を描いているのかもわからないのに。

 プロ/アマで分ける説もある。しかし、ネットが普及した今現在、プロとアマの区別をつけること自体、困難だと言えるだろう。

 では、オタクとは何なのか。
 ワタクシは「コミュニケーション能力」ではないか
と思っている。

 順番が前後してしまうが、ワタクシは昔から、「オタク」=「コミュニケーション能力不足の人間」であると思っている。それが悪いと言う意味ではなく、コミュニケーション能力不足の人を「オタク」と呼ぶのだと思っていたのである。

 何故なら、それまでは収集癖のある人やこだわりの強い人は、


 (´・Д・)」 マニア
 って呼んでたから。


 異論はあるかも知れないが、かつてTVなどで紹介される「マニア」「コレクター」には、威厳があったように思う。
 蒐集できる金と、そのコレクションを保管するだけのスペースを持ち合わせている。
 少なくとも、TV番組にはそんな人が出てたと思う。
 イケ好かないマニアもチラホラいたが、それが「バカにされる対象ではなかった」ように思うのだ。

 だから、1980年代に入って「オタク」という言葉が生まれ、そこには一定のリスペクトを集める「マニア」との差があったと感じていた。
 そう。尊敬の念がない。もっと率直に言えば、


 (´・Д・)」 バカにされた。


 それがアニメとかのジャンルだからバカにされたのだと思う人もいるだろうが、別にそれまでも「鉄道」「漫画」「模型」「アイドル」と系統的には同じジャンルのマニアが荘厳に紹介されてた。だから、ジャンルじゃないと思う。無論、漫画→アニメや、スケールモデル→アニメモデルなんて差はあっただろうが。
 つまり、イケ好かないからでも、コレクションに嫉妬したからでも、ジャンルが違うからでもない。


 ワタクシが感じたのは、
 社会との断絶である。


 アニメオタク、アイドルオタクがその走りになると思うが、


 趣味に没頭するあまり、
 色んなモノを捨てた結果が、

 「オタク」と言う存在である。


 とワタクシは思うのある。前述のマニアは、何のと言いながら「金を持ってる=社会的ステータスがある」紹介のされ方だった。高度経済成長期だったからかも知れない。
 しかし、オタクを知らしめるニュースは概ね、


 趣味のためにパンの耳で生活する。
 アルバイトで自由に動ける生活。


 こーゆーのを印象付けるような番組が多かった。
 つまり、色んな病気をどう定義するか、と似ていて、「実生活を送るのに支障があれば病気」と同じく、


 「趣味が実生活を送る
 妨げになる人」こそが、
 オタクなのではないか
 と思うのである。


 ここで何が一般的かを議論するつもりはないが、要するに「する/できるのが一般的」な要項を、「しない/できない」で趣味に没頭する人を「オタク」と呼ぶのではないか、と少年だったワタクシは考えた。
 言語化できたのは数年後で、その更に数年後にはオタクの意味も変化していった訳なのですが。

 そこで最も顕著で重要な「当たり前」が、「コミュニケーション能力」なのだと、ワタクシは考えた。
 意思疎通がままならないから「一般的じゃない」と思うし、意思疎通ができないから「迫害しても許される」と思った人間も多かったのではないだろうか。

 それが現在にも根底部分で流れる「オタク迫害」の真相なのではないかと、ワタクシは思うのである。
 そして、これも危険な発言ではあるが、「オタクだからコミュニケーション能力不足になる」よりも、その逆で、


 コミュニケーション能力不足だからこそ、
 オタク趣味になっていくのではないか?


 と考えるのである。これは結局「卵が先か鶏が先か」と似た話になるが、基本的に、人間と違って「モノは人間を嫌わない」のだ。芸術やスポーツ、身体能力やセンス、技術と違って、モノは裏切らない。
 基本的に、蒐集はセンスや身体能力を問わないのだ。

 だからこそ、色んな事に失敗し、内向的になるたびにモノへの執着に目覚めるのではないだろうか。そんな可能性を考慮している。


 これらは雑な考察で、差別を肯定しかねない考えだが、差別の意図はない。単に、そう言う傾向や事実があるのではないかという考察である。そもそもワタクシ自身がオタク側だろうし。


 ワタクシ自身は「人は当然裏切るし、モノだって物語だって、思想や概念さえ裏切る」と考えているが、多くのオタクは違う気がしている。

 だって、だからこそオタクは、連載漫画が理想を裏切る展開だったら、大暴れするし、


 ヒロインが
 処女じゃない!


 って発狂するんだと思うのよね。
 前提は「裏切られる事がない」筈だから。

 (´・Д・)」 ワタクシはむしろ裏切るキャラクタや物語が好き。


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 なお、この先には、ワタクシがオタクなのかどうかについて書かれています。

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(´・Д・)」 文字を書いて生きていく事が、子供の頃からの夢でした。 コロナの影響で自分の店を失う事になり、妙な形で、今更になって文字を飯の種の足しにするとは思いませんでしたが、応援よろしくお願いします。