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現世界グルメ「美味いということ」


 美味いものが好きだ。おそらく、これに異を唱える人は少ないだろう。
 まあ、全く食べ物に興味がないって人もいなくはないだろうが、美食という意味ではなく、明確に「自分が美味しいと思うもの」と付け加えたなら、否定する人は更に減ると思われる。
 そりゃそうだ。自分が美味い、と思うのは、自分の好みとして美味いのだから、嫌いな筈はない。
 無論、中には壮絶な幼少時代を過ごし、美味しいものを親の仇のように思ってる人がいるかも知れない。いや、そんな人に出会った事はないが。
 また、食べ物に嫌な思い出があるとか、過食症や拒食症、あるいは味覚障害などの理由で美味しいものを敵視してしまうような人がいるだろう事も想像に難くない。
 また、単純に食事自体に強い思い入れと言うか、興味がないなんて人も稀ではあるが、いる。あるいは、別の興味の方が強過ぎるとか。
 しかし、食事に興味がなくとも、人は食事を摂らずに生きていく事が出来ない。人間にとって重要な事であり、それが「美味い」「楽しい」である事に喜びを感じるのは、ごく自然な事だと言える。
 私はその「美味い」の正体が知りたいのだ。
 こんな随筆を書くぐらいには美食が好きである。しかし、本当のところを言うと、知りたいのは「美味なる食事」ではない気がしているのだ。
 本当に知りたいのは、おそらく「美味」の正体なのである。
 「美味」の正体とは何か。これを理解するために、知ってもらいたい人物がいる。
 名は白川静。文学博士であり、漢文学者である。
 古代漢字研究の第一人者であり、偉人である事は間違いない。だが、彼は同時に異端でもあったのだ。
 文字の成り立ちには通説がある。最もわかりやすく言えば、象形文字だ。
 山を、絵で⛰のように書いて伝えた。この山が△のように簡略化され、「山」という漢字が出来上がったとする説だ。
 カタカナや平仮名もその漢字を崩して生まれたものである。
 しかし、白川の説は違う。いや、大きく変わる訳ではないが、誕生の経緯が違う。
 白川の説では、文字はそもそも「神と交信するためのツール」として生まれたと言うのだ。
 この説が異端とされるのは「証明が困難を極める」からであり、決して安いオカルト的な話ではない。
 人はいつから「意識」を持ち始めたのか。人はいつから思考を始めたのか。人がいつ頃から言葉を発し始めたのか。人がいつから「神」を崇め始めたのか。そして人がいつから「文字」を発明したのか。
 この際、神の存在の有無はどうでもいい。
 人が意識を持ち、文化も何もない原始的な世界で生きていく中で、自然の猛威や過酷な運命から「神」の存在を感じ始めた時代と、文字の誕生ではどちらが先だと言えるだろう。
 文字が、人から人へのメッセージではなく、人から神へのメッセージとして生まれたという説をどうして笑えると言うのだろう。
 白川静の説が正しいのかどうかはどうでもいい。それは神の存在と同じく、どちらでも構わないし、信じるか信じないかもどうだって構わないのだ。
 単に「神とのチャネリングのために文字が生まれた」としても構わないし、その節は非常に興味深いと思うまでである。
 その白川静は2006年に没したが、彼は「この世に文字が生まれた瞬間を見たい」と言っていたそうな。彼が学者をしているのは、学者としてその人生を文字に捧げたのは、どんな理屈であれ、この世に「文字が生まれた瞬間」を見たい、その瞬間のことを知りたい、という一念だったと言う。
 似たような話で、こちらは作家の西村寿行だったと思うが、彼は「夕焼け」に不思議を感じたと言う。
 夕焼け。日没前に太陽が赤く燃えるように見える現象だ。
 わかりやすく言えば、太陽から発される光や電磁波の中で、我々人間の目に見えているのは「可視波長」のものだけなのである。
 光は待機中で反射を繰り返し、我々の目に映る頃にはそのほとんどが拡散してしまっているのだ。これをレイリー散乱と言うが、真昼は太陽が頭上にあり、光の拡散が少ない。
 しかし、太陽が遠くなる夕刻は光の拡散がさらに進み、太陽の光が赤みがかって我々の目に届くのである。
 西村寿行(だったと思う)は、この夕焼けが赤い理由ではなく、
 「人はなぜ夕焼けを見て美しいと思うのか」
 を疑問に思ったのだと言う。
 そう。おそらく世界中の人々は夕焼けを美しいと感じることだろう。ひょっとすると伝える手段を持たないだけで、犬や猫や牛や蝙蝠もそう感じているのかも知れない。
 ただの光の波長による現象だ。だが、それを世界中の人々が美しいと感じる。その理由は何なのか。
 美しいに理由はない。それも理由の1つだろう。単に、今日という1日を生き延びられた事に安堵を覚える瞬間なのかも知れない。つけようと思えば、理由なんか幾らだってつけられる。
 だが、これから夜行性の動物に襲われるかも知れない端境を呑気に美しいと思うだろうか。夜も闇も克服できていない人類が、夕焼けを美しいと思う理由を明示する事は、決して簡単ではないだろう。
 さあ、これでご理解いただけたであろうか。
 私は「美味」の正体が知りたいのだ。美味とは一体何なのか。
 ひとつは栄養価であろう。基本的に人は食事によって栄養を補給し、活力とする。だが、栄養過多や偏重は却って体調を悪くさせる原因だ。
 似たような所では薬膳がある。医食同源なんて言葉を作るぐらいには医と食に繋がりがある事は間違いない。しかし、これも正しくはない。
 一歩間違えれば死ぬフグを食べたり、更には栄養価もなく、とんでもない手間がかかるのに蒟蒻を食べる。
 栄養価や胃袋を満たせれば良い訳ではないのだ。それはサプリメントやダイエット食品や高カロリー食品が示している。
 そもそも暴飲暴食は大罪に数えられるほど魅力的なのだ。
 では、美味いとは何だ? ハッキリ言ってしまうが、「美味い」には3種類しかない。
 甘味、つまり砂糖。塩気、そのまま塩。旨味、すなわち油脂。
 人間は基本的にこの3つしか美味いと思っていないのである。
 だったら、砂糖だけ食ってればいいじゃないか、という話になるが、不思議なもので砂糖だけ、塩だけ、脂身だけをモリモリ食べ続けられないのである。
 だからこそ、甘味酸味塩気苦味渋味をバランス良く配合する事で、料理を食べ続けられるようになるのだ。
 例えば、食べた寿司と同じ塩分量を塩だけで食えとか、食べたケーキと同じ砂糖の量を食えと言われても困る。寿司なりケーキなりという「料理」になっているからこそ成立するのだ。
 そう考えると「美味しい」の正体とは何だ?
 ひとつにはレアリティ。つまり、稀少性がある。
 確かに、珍しい魚や珍味と呼ばれる類は稀少性が高く、だからこそ美味いとされる部分は否めない。松茸なんかをはじめとして、旬の野菜のように「その時期しか食べられない」という稀少性も美味さのひとつではあろう。
 それに高い金を払ってでも食えると言うステータスも手伝っているのかも知れない。
 しかし、別に「珍しいだけ」で、必ず奪い合って値段を釣り上げるかと言うとそんな事もないのである。
 確かに値段は高いけれど大して美味しくないものも存在するように、珍しいが、大して美味くもないので話題にさえ上がらない食材は存在しているのだ。
 つまりレアリティでもない。
 もう少し掘り下げると、「手間」という項目にぶち当たる。
 野菜や果実という食材は、手間をかけて育てた方が美味くなるのだ。
 病気や虫食いをなくす、栄養を充分に与える、雑草に栄養を取られないよう、除草する。こう言った手間で野菜は美味しくなる。
 過度なストレスを除去し、適度なストレスを与える、健全に育成する一方で甘やかし過ぎない管理は必要。
 例えば、果実は剪定する事により、ひとつの果実に回る栄養価を上げる。
 こう言った手間をかける事により、果実を甘くしたり、えぐみを減らしたり、皮を薄くしたり、いう美味しさに繋げられるのだ。
 いや、これは家畜も同様で手塩をかけて育てた肉ほど美味い。魚も、養殖であれば手間をかけた方が美味い。いや、野生動物であるジビエでさえ、屠殺方法や処理、鮮度と丁寧な仕事をした方が美味いのである。
 食材だけではないだろう。料理も基本的にはしっかりと手間暇をかけて作った料理の方が美味いのである。
 これまでの話で言うと、「手間」こそが最も「美味」の正体に近いと言える。
 しかし、手間を掛けるのは「こうした方がいい」という「正解」を知っているからこそ、手間を掛けて軌道修正するのだ。
 その「正解」とは何なのだ?
 確かに、硬すぎる肉は食えないし、食欲をそそられる人間は少ない。
 では、肉の柔軟剤を注射してまで、不自然に軟らかくした肉が美味いのかと言われると困る。
 では「バランス」だろうか。何の分野においてもバランスは重要だ。
 しかし、バランスこそが美味なのかと言われると返答に困る。
 何故なら、人の好みなんて千差万別だからだ。
 それを言ったら元も子もない、と言われるだろうが、求めている答えはそれではないのだ。
より多くの人が高い金を支払ってでも「もう一度食べたい」と思う物がある。珍しくなくてもいい。
 だが、高い金を払って、という時点で「人類が共通して美味いと思う味」と言うものが存在するのだ。
 世界が認める美女でも、世界が評価する芸術品でもいい。
 その「美味い」はどうやって舌をうねらせたのか、何故人の心を掴んだのか。
 多くの人は花の香を心地よいと感じる。そして、夕焼けが美しいと心を揺らす。
 人の好みは人の数だけある。しかし、それでも「多くの人が好む」という意味で最も重なる部分は存在する。
 色んな好みがあるからこそ、配偶者が違い、多様な生存戦略が行われる。同じように、生物の多様性により、「美味さ」には大きな幅があるのだ。
 大人気のアイドルが存在するように、より多くの人が「美味い」と感じるかどうか。
 いや、数が決め手ではない。アイドルが好きと言っても、熱烈なファンでない限り金をつぎ込むことはしないだろう。しかし、食事には、ほぼ間違いなく金が掛かるのだ。
 つまり、値段や希少性の問題で「それでも食べたい」のか。安くても美味いのか、安いから美味いのか。
 あるいは全ての食事が「同じ値段ならどちらを手に取るか」 そして、「無料ならどれを選ぶのか」
 更にそれは、稀に食べたくなる美味さなのか、毎日でも食べたい美味さなのか。
 他にも、最初は苦手だったけど、今では癖になる美味さだと感じているとか。
 食べた瞬間に平伏したくなる美味さだったとか。
 とても美味しいと感じていたのに、不思議と魅力を感じないとか。
 人間にとっての「美味い」とは何なのだろう。
 栄養価でも健康でも希少性でも値段でも手間でもバランスでもない。
 同時に、栄養価でも健康でも希少性でも値段でも手間でもバランスでもある。
 だからこそ私は「美味い」の正体が知りたいのだ。それが、私が筆をとっている理由のひとつである。
 文字誕生の瞬間を見たいと願う学者がいたように、夕焼けを美しいと思う人の心が知りたいと言う作家がいたように。
 私は「美味い」の正体が知りたい。

 ※ この記事はすべて無料で読めますが、食い物は金が掛かるので、投げ銭(¥100)をお願いします。
 なお、この先にはリアルなワタクシの飯事情しか書かれてません。

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(´・Д・)」 文字を書いて生きていく事が、子供の頃からの夢でした。 コロナの影響で自分の店を失う事になり、妙な形で、今更になって文字を飯の種の足しにするとは思いませんでしたが、応援よろしくお願いします。