BORN TO RUN IV
進藤アレクは、未だにこの事態が信じられないでいた。
アマチュアレスリング日本代表に選ばれたことーーー、ではない。今、目の前にある光景があらゆる角度から信じられないでいた。
進藤アレク。二十歳。子供の頃から、自分の名前が嫌いだった。父も母も日本人である。同世代には、もっと妙な名前がいた。比べれば、マシな方かも知れない。そう。いわゆるキラキラネームとかDQN(ドキュン)ネームと呼ばれる類だ。
母親が好きだったゲームの登場人物から拝借したらしい。好きなゲームなんかから安易に名付けた母に、何処か違和感を感じていた。それを許した父も同様だ。
両親の事が嫌いな訳ではない。だが、自分とは違う種類の人間なのだ、といつの頃からか区別するようになっていた。
それが明確になったのは、ゲーム内のアレクが剣士だったという理由から、剣道を習わされた時期だ。師範は仁義礼智信に富む人柄で、ふわふわした母とは違う、こちら側の人間だった。
剣道の面白さはわからなかったが、ただ、師範の側にいるだけで、あちら側の人間とは違うと自己を確立できた。周囲の大人や生徒も、しっかりした人が多い。それが剣道を続けられた理由だ。
剣道自体は好きではなかった。痛い。臭い。特に、母親がきちんとした人ではなかったから、人一倍防具は臭かった。しかも、特に大きな喧嘩をした風でもなく、ふわふわしたまま両親が離婚し、母親に引き取られて田舎に引っ込んだため、そのまま剣道も辞めた。小学四年生の時である。
母が嫌いな訳ではない。月に一度面会する父が嫌いな訳ではない。ただ、あの人達は「あちら側の住人」だったのだ。
剣道を辞めた後、転校先の小学校の部活は球技を選んでみた。しかし、ふわふわした人間が混じっている集団の中で活動する事が難しく、中学校では個人競技を選んだ。
剣道は選びたくなかったが、綺麗に一本を決める瞬間は嫌いじゃなかった。だから、本当は空手をやってみたかったが、中学に空手部が存在せず、諦めて柔道部に入った。
そして、その時にアマレスに触れたのだ。
柔道部の顧問がかなり真剣なタイプで、交流会という形で、別の中学のレスリング部と試合をする事になったのだ。それぞれ三試合。柔道主体のルール、レスリング主体のルール、そして、混合ルール。
中学からレスリング部のある学校は珍しい。つまり、部活が存在しているだけで、かなりの強豪校だと言える。
しかも、レスリング部の連中は柔道の経験者が多い。また、柔道なら練習相手に事欠かない、という理由もある。そこで、アレクの中学は惨敗した。自分の土俵でもかなりの土をつけられた訳だ。
この時、アレク自身は試合に勝っている。しかし、この時の縁がアレクをレスリングに結びつけたのだ。この時の交流試合で、特にレスリングに興味を持った、という程のものではなかった。ただ、試合相手が近所に住んでいた事から、交友関係に変化が出た。どうしてもマイナースポーツであるレスリングをやっている連中に、ほとんどふわふわした人間がいなかったからだ。
そして、レスリング界の怪物に「アレクサンダー」という名前を見つけた事もある。ゲームの中の美形剣士ではなく、レスリング界の怪物アレク。
自分自身の、流されて始めた剣道や、空手の代わりに選んだ柔道ではなく、ふわふわせず、自分の意思でレスリングを選びたいと考えたのだ。
親と離れるために県外の、レスリング部がある高校を選ぶため、卒業まで勉強と柔道に励んだ。出稽古でレスリング部に顔を出す事も欠かさなかった。だから、高校でその頭角を現したとしても、ある意味では当然の結果だった。
ふわふわした人間との決別が、彼を超一流アスリートへと変貌させたのだ。
大学にはレスリングで進学し、選抜を勝ち抜き、フリースタイル全日本選手権を制覇。
そして、オリンピック日本代表へ。
ここまでの躍進は、確かに信じ難い事だと言える。だが、アレク自身は競技人口の薄さも理解していたし、自分の実力も、自分の成績も理解していた。
だから、信じ難い事ではあっても、意外な事ではなかったのだ。アレクは、それだけの努力をし、実績を残してきたのだから。
だからこそ、今、目の前の事態が理解できないでいた。
アレクは、週に一度だけではあるが、居酒屋でアルバイトをしていた。大学の北側にある、チェーン店の居酒屋である。店側としては、アレクを雇っているという事実があるだけで、レスリング部の関係者が店を使ってくれる事があるのだ。それだけで充分だった。アレクも、大して熟練もせず週一しか入らない自分を重宝してくれる店に感謝していた。
その日の夜も、最後の客を見送り、閉店後の作業までを手伝い、居酒屋を後にしたのは深夜の三時。
下宿は大学を挟んだ反対側にある。一番の近道は、北の正門から、南の裏門を通る大学のキャンパスだ。
こんな時間である。理系の実験棟ならいざ知らず、学部生はまずいない時間帯。人がいない訳ではない。構内に残っている学生も、警備の人間もいるだろう。だが、今のところ、詰所で警備員の姿を見た以外に、誰にも会っていない。
いや、いた。
校庭内のベンチに、男が一人。
妙だ、とは感じた。
暗がりではっきり見えている訳ではない。だが、雰囲気が学部生のそれではなかった。服装も、気配も、大学生ではないと確信できるほどだ。
その手に、大きめの缶を持っている。ビールか。だとすると500mlの缶だろうか。
酔っ払いか。広い大学のキャンパスだ。学生でなくとも簡単に侵入できる。アレク自身も帰宅するために大学敷地内に侵入している形だ。人の事は言えない。
不審者が小学校を襲うのは、相手が非力だと知っているからであるとされる。だが、セキュリティの甘さで狙うなら、大学が一番簡単なんじゃないか。そう思った矢先の事だ。
ベンチに座っていた男が動いた。
身体を起こし、立ち上がり、アレクの方を向いた。
二人の距離はまだ4メートルほどある。どう考えても接触できる距離じゃない。
そう思った、いや、そう感じていた瞬間、男が、大きく腕を振り回したのだ。
ーーー!?
素早く振り回した手に握られていたのはビールの缶。そう。男は、中身のビールをアレクに向けてぶち撒けたのだ。
ーーー何を!?
男の行動が、全く理解できなかった。咄嗟に右肘を顔面の前に出し、ビールの飛沫を防ぐ。何が起きたのか、まだ脳味噌が把握していない。だが、飛沫を防いだ直後、投げつけられた缶が眼前に迫っていた。
反射的に身体を捩って回避する。ーーーが、その直後、
アレクは地面に仰向けに倒れていた。
有り得ない。
日本代表が、肩をつかされた。
そう。路上で、突然の事とは言え、両足タックルを決められたのだ。
アレクも、無意識のまま受け身を取っていた。こんな時は思考よりも染み付いた習性の方が強い。
遅れて、自分が何をされたのか理解し始める。
あの男は、わざと自分の方に注意を向けさせた直後にビールを浴びせ、返す刀に缶を投げつけたのだ。だが、この二つは、次の一手の布石でしかなかった。
4メートル近い距離を詰めるための布石。タックルを決めるための布石でしか。
突然の出来事で、路上での闇討ち。だがそれでも、男がタックルを決めた相手は日本代表だ。
決めた技は、両足タックルだが、レスリングのそれよりも、総合格闘技のそれよりも、柔道の諸手刈りに近かった。踏み込みの蹴り足はレスリングや総合に近い。だが、柔道経験者のアレクには、技自体は柔道に近いと感じられた。
レスリングなら、両足を持ち上げる。総合格闘技なら、身体を押し込んで倒す。だが、男はアレクの足を引き倒したのだ。
お陰で、無意識のうちに受け身を取っており、石畳でもダメージらしいダメージはなかった。
ただ、こんなに綺麗な諸手刈りを決められたのはいつ以来だ?
衝撃だったのは、男の闇討ちだけではない。闇討ちで有ろうと無かろうと、この男の諸手刈りは完成されていたのだ。
意識を逸らされたのは事実だが、あれは間合いに入るまでの時間稼ぎでしかなかった。そこいらのタックルなら止められたはずだ。だが、間に合わなかった。つまり、この男のタックルの速度は少なくとも超高校級。
そして、肩を入れてからの速度とキレは尋常じゃない。アレクは日本代表である。並みのタックルなら切って当然なのだ。だが、タックルは切れなかった。素早いだけでなく、熟達しているのだ。
受け身を取った瞬間から、ここまで考えが至るのに、一秒と掛からなかった。だが、格闘技における一秒は、試合が決するに能う。
諸手刈りからの、左足挫ぎ。一般的にはアキレス腱固めと呼ばれる。柔道ではもはや禁止になった技だ。アレクも技は習った。これが完全に極まれば、故障は確実だ。まずい。左足を引いて、腕からの脱出を図るーーーが、それも罠だった。
膝を曲げさせるのが、男の目的だったのだ。差し込まれる脚と肘。男の指がクラッチする。
もう逃げられない。男の狙いは足首じゃない。ヒールホールド。膝だ。
その名称こそヒール(かかと)だが、実際に極まるのは、膝関節である。完全に極まると、もう間に合わない。膝も靭帯も壊される。下手をすると足首も。
終わった。逃げられない。この技が完全に極まるまでに、五秒もあれば充分だろう。いや、三秒かも、二秒かも知れない。だが、人間は死ぬ寸前に走馬灯を見ると言う。アレクには、その一秒が何十秒にも思えた。
そして、この男の正体にも気付く。
こいつは、「辻斬り」だ。
このところ、格闘技に特化して、アスリートが襲撃されると言う事件が相次いでいた。
空手、柔道、キックボクシング、総合格闘技、被害者は表に出ているだけで八人。「強さ」を売りにしている人種だけに、敗北しても明るみに出ていない事件が、他にもあると言われている。
こいつはその犯人「辻斬り」に違いない。だがまさか、レスリング選手を狙うとは考えても見なかった。いや、考えなかったと言うのは嘘である。
もし、自分にその「辻斬り」が襲ってきたら、と思いを巡らせた事は事実だ。実際に、総合格闘技などにおいて、打撃よりも組み技の方が重視されている。
だから、組める間合いに入るまでに殴られなければ、タックルで潰せる。そう考えた瞬間は、間違いなくあったのだ。
だからこそ、有り得なかった。この光景が。
不意打ちだった。だがそれでも、自分が想像した、組める間合いに入り込まれ、タックルで潰されたのだ。
そして、選手生命さえも断ちかねない技を掛けられようとしている。がっちりと腕が、指が、アレクの脚を破壊しようと固定される。まだ一秒も経過していない。
信じ難い光景。
だが、それ以上に信じ難い光景が、目の前に広がった。
男の顔面が、派手に蹴り飛ばされたのである。
突如、横から乱入してきた、もう一人の謎の男に。
※ この短編小説は無料ですが、続きが気になった方は投げ銭(¥100)をお願いします。¥1,000ぐらい溜まったら、続きを書くよ。って言ったらホントに溜まったので書かざるを得なくなった。今回も同じく、¥1,000ぐらい溜まったら続きを書くよ。なお、この先には特に何も書かれていません。
ここから先は
¥ 100
Amazonギフトカード5,000円分が当たる
(´・Д・)」 文字を書いて生きていく事が、子供の頃からの夢でした。 コロナの影響で自分の店を失う事になり、妙な形で、今更になって文字を飯の種の足しにするとは思いませんでしたが、応援よろしくお願いします。