『狂気の山脈にて』と郡司ペギオ幸夫とロザリンド・クラウス
写真をはじめ、表象論やテクスト論、メディア論、写真論などなどを掘っていくうちに、文化人類学まで行き着いてしまったが、ある意味、それは何かを失ってしまった感じがあったからこその読書だった気がする。
それが郡司ペギオ幸夫著『創造性はどこからやってくるか?』を精読して、急速に何かいろいろなものがもどってきた気がする。
今週の読書会は欠席者多数で延期になった。
ということは、今週は読書ノートをまとめなくていいので、自分の読書をしようと思い、H.P.ラブクラフトの『狂気の山脈にて』を注文した。
「創造性は・・・」のキモはペギオ先生の用語である“トラウマ構造”にある。
これはロザリンド・クラウスの『展開された場所における彫刻』の図に酷似している。
[風景vs建築]という二項対立=肯定的矛盾が、[非風景vs非建築]に否定的矛盾に変化して、[彫刻]という二項対立の外部を呼び込む。というのが、ペギオ/クラウスを混ぜ込んだ保坂の「トラウマ構造」の解説だ。
トラウマ構造の名の通り、芸術的創造性とトラウマ的狂気は同じ回路であり表裏一体であるとまでは、ペギオ先生は語っていないが、保坂はそのように解釈している。
「創造性は・・・」の四章で、時間に関するトラウマ構造が読み解かれている。
ここで思い出したのが、クトゥルフ神話、しかもH.P.ラブクラフトである。
クトゥルフ神話とは、H.P.ラブクラフトらが1920年前後から、米国で書き継がれたパルプマガジン小説≒怪奇小説を元にした架空の神話体系である。
ぶっちゃけヲタクの教養であることだけが重要であって、そーんなに面白い小説群ではない。
しかしながら絶版にならず、百年以上もながくながく愛され、パスティーシュも多く、いまだに書き継がれ、読み継がれている。
この人気の秘密はなんだ?!と十代の頃から思っていた。
だいたい主人公は日記などの一人語り≒当事者性の形で、旧支配者≒永遠/無時間のことを知ってしまい、人知れず狂気≒トラウマに陥るというパターンを踏襲≒パルプ小説する。
これ、ペギオ先生の“トラウマ構造”じゃね?
創造性は旧支配者からやってくるんじゃね?
クラウスの“展開された・・・”の反美学?アヴァンギャルド?の構造がクトゥルフ神話にあるんじゃね?
と非常に悪い冗談を追試するために『狂気の山脈にて』を読もうと思う。
「狂気の山脈にて」はクトゥルフ神話の代表作であり、ドラマもマンガもあるのだが、なーがい。
思春期の十代の思い出だと、はっきり言ってあんまり面白くなかった気がする。
多分、思秋期の現在では集中力が持たないので、勢いのあるうちにぱぱっと、短編である原作を読む。
p.s.
クトゥルフ神話の解説なんて書くのは、何十年ぶりだろう。(^^)
保坂のクリエイターとしてのキャリアのスタートは、サイコロを転がすアナログゲーム系ライターであった。
『クトゥルフの呼び声』というテーブルトーク(トップ)RPGがあり、そのようなゲームを紹介するのが、初めてギャラをもらった文章書きの仕事だった。
このノートを“イマココ”で書きながら、ライターデビュー当時の過去に飛ばされる、酸っぱい経験であった。
どっとはらい。
2023/11/02 15:14