僕は《額縁》のある作品が好きらしい
僕は基本的に読んだら売ってしまう。
また欲しかったら買う。
読み切れないものも売ってしまう。
また読みたくなったときに買い直す。
ということをしているので、人生において何度も売ったり買ったりしている本がある。
ギブスン『クローム襲撃』などは最たるもので、多分、目の前を十冊以上流れている。
先日、石原千秋『読者はどこにいるのか』河出ブックス判を古本屋で買い直した。やっぱり面白く、勉強になる。
SNSなどで引用するために、Amazonで調べてみると河出文庫版がでていた。
スルーつもりでいたが、「主人公」と「女性」がテーマの二章が増えていて、読み進めると非常に大事なテーマだったので・・・、また買った。
買い直し5冊目かもしれない。
某美大の卒業・修了制作展に行ってきた。
面白くて二日間も行ってしまった。
広い敷地にあれだけの量の作品が並ぶのは、アートフェアみたいで楽しい。
いやアートフェアは《コマーシャル》という制度内の作品、美大はもう一つの《アカデミック》という制度の中の作品なので、楽しさの質が違ってる。
美大の作品というのは取り扱いがまちまちで、写真可否/SNS可否がある。
しかもギャラリーストーカー問題も大きくクローズアップされており、端的に言えば、このノートで一つ一つの作品を紹介をしない。
美大名を明かさずに、保坂のオーバービュー的な感想を記す。
美大の卒展ゆえ、彫刻、絵画、インスタレーション、プロジェクション、メディアアート、などなどカオスなのだが、全体の作品の規模の大きさ、存在感、迫る力に圧倒される。
保坂は写真がメインフィールドなので、カタログを見て技法や素材が「写真」と「映像」を中心に見た。
そこでちょっと気がついたことがある。
どうしても《写真》というメディウムが弱く感じてしまうことだ。
いま思い返すと、結局は印象に一番残っているのは《写真》なのだが、その展示、その場、その空間では《写真》が相対的に弱く感じる。
彫刻や絵画の「物質性」はやっぱり強い。
その圧倒的な大きさや重さにかなわない《写真》は、次の戦略として「展示空間の支配」に向かう。
今回も、ティルマンスのような壁にペラのプリント展示が、学部生や院生も含めて多かった。
確かに展示総体は、うれしくなっちゃうくらい非常にかっこいい。
しかしながら《写真》一枚一枚の写真が、意味的/モチーフ的/感情的につるっとした引っかかりが無いものが意識的に選ばれている気がする。
展示総体に対して《写真》や撮影者が背景に引いている気がした。
と同時に、この先にはメディアアートやキネティックアートといった動きのあるもの、つまりは「映像」に置き換わるように感じた。
実際、複数ディスプレイの展示、絵や写真、立体にプロジェクションマッピングする作品が多く見られ、非常に美しかった。
今の写真の流行は「リサーチ型」と呼ばれるもので、背後の情報の厚みや質的な内容、写真家の生き様を展示するものだ。
これはインフォメーションアート?と親和性が高いのだが、これまた内容を伝えるためには《写真》の弱さというか、背景に後退する様が露呈してしまう。
そんなさまざまな《写真》作品の中、僕が魅力に感じたのは額装をした《写真》のほうだった。
どうも、保坂は額縁のある《写真》が好きらしい。
額縁論って何かありましたよね?とゼミにて質問をしたら、《パレルゴン》があると教えてもらう。
デリダが『絵画における真理』の言葉で、「作品(エルゴン)の外、付随的なもの、二次的なもの」という意味らしい。
テクスト論における「パラテクスト」と同じもののようだ。
さらには「メディアはメッセージである」につながるか?
表紙や挿絵の写真、資料としての写真、証拠写真などなど、明示的な《写真》というか、植物《写真》というか、《写真》のゼロ度というか、とは《パレルゴン》かもしれないな。
という結論?どっとはらい。
2024/01/15 17:23