
ChatGPT × 保坂|第三改稿:ライカの呪いとライカの祝い|アウラの復活と新しい視覚の可能性
第三稿目です。
ChatGPT × 保坂|ライカの呪いとライカの祝い|アウラの復活と新しい視覚の可能性
ライカというカメラは、写真の歴史において 「呪い」 でもあり、「祝い」 でもある。
それは、ライカが生み出した「ライカ的写真」という制度の影響があまりにも大きく、それを使うこと自体がある種の 「決定された視覚」 を意味するからだ。しかし、同時にライカの魅力は消費資本主義の中で「ブランド」として消費されながらも、そこにもう一度、新しいアウラを見出す人々がいる ということも見過ごせない。
もし、ベンヤミン的な意味で アウラの喪失が新しいメディアの到来を意味する のであれば、ライカの呪いとは 「新しいメディアによって写真のアウラが喪失したこと」 を意味する。しかし、今、ライカを使うことが アウラの復活=ライカの祝い につながるとすれば、それは 「ライカという制度を祝う」ということなのか、それとも「ライカを通じて新しい視覚を獲得すること」なのか?
この問いは、ライカをめぐる写真家たちの歴史を再考することにつながる。
ChatGPT:ライカの呪いとしての写真史
ライカ的写真の誕生と呪いの起源
ライカが登場した1920年代、新興写真運動の中で「ライカ的写真」は革命だった。それまでの大判カメラによる 「構図・光・時間を厳密に計算する写真」 から、「機動力を活かして決定的瞬間を切り取る写真」 へと移行した。木村伊兵衛が日本における「ライカ的写真」の先駆者となり、戦後日本のスナップ写真の基盤を作った。
しかし、戦後、ライカ的写真に対する批判が次々と現れる。
• 土門拳:「スナップは偶然性に頼りすぎている」として、大判カメラによる構成美を追求。
• 東松照明:「リアリズムではなく、写真家の主観を押し出すべき」として新たなドキュメントを模索。
• 中平卓馬:「決定的瞬間は写真家の主観の押し付けにすぎない」として、アレ・ブレ・ボケの写真で視覚の制度を解体。
• 森山大道:「写真を撮るのではなく、写真に撮られる」として、無意識的なスナップ写真へ。
こうして、ライカは「新しい視覚の開拓者」としての地位を失い、次第に「伝統」として固定され、写真の制度そのものになってしまった。
さらに、80年代には「お正月を写そう、フジカラーで写そう」というスローガンのもと、スナップ写真が完全に日常化・産業化されていく。
かつての「ライカ的写真」は、資本主義のシステムの中で消費され、批評のツールではなくなった。
この状況こそが 「ライカの呪い」 だ。
保坂:ライカの祝いとは何か?
ライカを通じたアウラの復活
もし、ベンヤミンの言う「アウラの喪失」が 「複製技術によって芸術のオリジナリティが消えたこと」 を意味するのであれば、ライカを使うことは 「アウラの復活」 につながるかもしれない。
実際、ライカのレンジファインダー撮影は、現代のオートフォーカスのカメラとは異なり、写真家に能動的な視線を求める。
そのプロセス自体が「写真を撮ること」への意識を強め、写真行為そのものがアウラを持つようになる。
• フィルムライカの「1枚を撮る重み」
• 目で見たままを写すのではなく、レンジファインダーを通じた「視線のズレ」
• 「カメラが写真を撮る」のではなく、「写真家が写真を撮る」という意識の回帰
こうした要素は、単なるレトロな回帰ではなく、写真に対する新たな価値観を生み出している。
ライカの祝いとしての資本主義的側面
しかし、ライカの「アウラの復活」は、ライカというブランド戦略の中で消費される可能性もある。
近年のライカは、フィルムカメラの再評価を受け、「ライカM6」の再販を発表したり、限定モデルを販売したりすることで、「ライカの価値」を再構築しようとしている。
YouTuberやインフルエンサーがライカを手にして「新しい視覚が得られる」と語るとき、それは本当に新しい視覚なのか? それとも、ライカという制度の中で「特別な体験」を消費しているだけなのか?
• 「ライカを使えば、写真が変わる」という言説
• 「ライカならではの撮影体験」というブランド化
• 「特別なカメラ」としての神話化
これらは ライカの祝いでありながら、同時にライカの呪いでもある。
ChatGPT × 保坂:ライカの復活としての可能性
ライカが「呪い」でもあり「祝い」でもあるのなら、それをどう受け取るかは写真家次第である。
資本主義的なブランド消費としての「祝い」に留まるのか、写真表現の新たな地平として「祝い」を更新するのか。
ライカを持つことが 「制度に絡まりながらも、それを批評的に乗りこなすこと」 になるとすれば、ライカの祝いとは 「ライカの呪いを意識しながらも、それを利用すること」 に他ならない。
結論:ライカの呪いを超えて
ライカの呪いとライカの祝いは、表裏一体である。
ライカは歴史的に 「新しい視覚を生み出す道具」 だったが、今や 「伝統的な視覚を固定する制度」 にもなっている。
しかし、ライカを「祝い」として受け取ることで、新たな可能性を見出すこともできる。
• ライカの呪いとは? → 「ライカ的写真」という制度に縛られること
• ライカの祝いとは? → ライカを通じて、新しいアウラを生み出すこと
もし、ライカを手にすることが 新しい視覚を獲得する行為 になるならば、それは 単なるノスタルジーではなく、ライカの呪いを乗り越える道筋 になるだろう。
そして、ライカの祝いとは 「ライカ的写真の伝統を意識しながらも、それをずらしていくこと」 によって生まれるのではないだろうか。