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文章ワークショップみたいになってきた

コクリコ坂から「手近な本をランダムに開いて見開き2ページ丸写し」というミッションが来る。(^^)
これなんだろうね、遊びなんだけど、すごい新鮮。

手近、ランダムというミッションは、早速、無視することにした。
これから丸写しする内容は、これから自分が読む本、引用しお見せする価値のあるもの、という基準で選んだ。
著作権の引用と無断転載の森に迷い込まないために、アマゾンのアフィリエイトリンクをつける。

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心はどこへ消えた?(p16 東畑開人、文藝春秋社)

 ここがこの本で元も理屈委ぽいところになる。少しハードだと思うが、ついてきてほしい。
 たとえば、頭がひどく痛いとき、あなたはまず病院に行くはずだ。そこで、脳の写真を撮り、血液の検査をする。その結果、「体には異常はない」と診断される。そのとき初めて、あなたはその頭痛の原因が心にあるのではないかと考え始める。
 あるいは、カウンセリングを受けるときだってそうだ。カウンセリングは何か困ったことがあったとき、最初に選ばれる場所ではない。クライエント(相談者)たちはまず自分の問題を自分で何とかしようとする。体調が悪いせいではないかと思い、休みを取り、生活習慣を変えてみる。環境が悪いせいじゃないかと思い、引っ越しをしたり、転職をしたりするかもしれない。
 それでもどうにもならなくなったとき、「心の問題」が可能性として浮かび上がってくる。そうなってようやく、渋々カウンセリングの予約を取ることとなる。

 そう、心は否定の後に現れる。
 体のせいでもなく、物のせいでもない。お金がないせいでもなく、組織が悪いともいえない。社会のせいだけにしても、環境のせいにもできそうにない。そういうとき、心を問題にせざるえなくなる。

 あるいはこうも言える。みんなが言っていることに納得がいかない。親にも同僚にもパートナーにもわかってもらえない。きわめて個別の、自分しかわからない事情がある。そういう他者とは異なる自分だけの孤独に、心が宿る。
 心とはごくごく個人的で、内面的で、プライベートなものだ。それはあらゆるものを否定した後にそれでも残るものなのだ。心は旅の始まりでなく、終わりに見つかる。

 だから、小さな物語こそが、心の場所になる。物事をシンプルに割り切ろうとする大きな物語を否定したところに心が現れるのだ。
 そうじゃないか。
 私たちは複雑な話を、複雑なまま聞き続けたときに、その人の心を感じる。あるいは複雑な事情を複雑なまま理解してもらえたときに、心を理解されたと感じる。表だけではなく、裏まで含めてわかってもらうと、心をわかってもらえたと思える。

コロナの前から

 コロナの1年に起きていたのはこれだ。
 大きすぎる物語が小さな物語をかき消してしまった。だから、こころがみつからない。


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2021/09/30 8:32

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