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【桜井漆器#3】売れりゃOK!商人根性から始まった桜井漆器

【桜井漆器#2】の冒頭にも書いたが、2024年10月現在、3〜4ヶ月ほど前の出来事を記事にしている。
WAYAと桜井漆器の関わりはただ調べる対象としてではなく、プロジェクト的な感じに進展しているのである。

WAYAのたかはしが仕事で知り合った「実家が漆器店の人」の家に話を聞きに行くことから、事は急展開をみせる。伺ったのは“月原漆器店”さん。
流れ的に月原漆器店さんへ行った時のことは後ほど別記事で書くとして、その際に聞いた話なども織り交ぜ、まずは桜井漆器の歴史やらを記していこうと思う。



桜井はかつて天領だった

器などの伝統工芸の産地は、その土地の風土や文化が影響していることが多く、漆の主要産地である石川県に3大漆器である輪島塗があるのが丁度いい例である。当然だが、今より物流の便が悪い時代は地産地消が基本となっていたのだろう。
さて、一方桜井は何か漆器に関係する文化や優位な風土があったのだろうか。

特にないのだ。
ではなぜ桜井で漆器が販売され生産に至り、産地となっていったのだろうか。

桜井漆器は江戸後期ごろ、およそ250年ほど前に生産ではなく販売から始まったとされる。
1765年に伊予松山藩から天領(幕府直轄の領地)になった桜井は、当時これといった特産品もない貧しい農村だったそうだ。
江戸時代というと、幕府に収める年貢システムが徴税としてあるのだが、天領である桜井はお隣の今治藩とは別に年貢を納めなくてはいけない。
で、この年貢だが近くの役所的なところに納めに行くようなお手軽なものではないのだ。
なんとこの年貢、大阪まで船で運んでいたというのである。
大阪の南港と愛媛の東予港を結ぶオレンジフェリーの航路が大体同じくらいである。
年貢というと基本米である。リアル米。なんせかさばる。それを税として納めに行かなくてはならなかったのだから、当時の人たちは相当大変だったであろう。
それは桜井に限ったことではなく、全国様々な藩が年貢を納めに今の大阪市西区界隈までやってきて、収めた年貢米をお金などに換金していたのだ。
大阪が天下の台所と言われる所以は、こうして全国から年貢米や様々な物品集まっていたことと知り、なるほどと合点がいった。(学校で習ったのかもしれないが。。)

江戸時代の蔵屋敷余談

余談だがわたしは数年前まで件の大阪市西区に住んでいたのだが、当時突然歴史に興味が湧き、周辺のフィールドワークをしていたことがある。
大阪市西区には「〜堀」という地名がやたらとあるのだが、ここにはかつて水路が張り巡らせれており、各班の蔵屋敷(年貢米の貯蔵庫)や年貢、特産品の荷揚げ場などもあった。
例えば、わたしの住んでいた土佐堀は「土佐=現在の高知県」の蔵屋敷があったとされ、今は跡地が土佐稲荷神社や公園などになっている。向かいには「鰹座橋」(土佐名物の鰹が荷揚げされていた事から名付けられた)という交差点があり、今の道路が当時は運河であった痕跡がうかがえる。

「ということは桜井の蔵屋敷もあったのか?」と思い、調べてみると、「大坂蔵屋敷表(天保十四年)」なるものが大塩の乱資料館というWEBページにあった。(こういうURLを転載しても良いのか分からなかったため一応載せないでおく)
この表によると、桜井の蔵屋敷は確認できなかった。幕府直轄の天領はまた違ったルートで年貢を納めていたのだろうか。

今治藩の蔵屋敷の情報はあったので記載しておく。
蔵屋敷の所有者は松平若狭守定保、所在地は西信町とある。
若狭守(わかさのかみ)とは江戸時代においては武士の人が名前の間に入れる地名に由来する名乗りなのだそうだが、若狭は現在の福井県にあたる。なぜ。。
今治藩は割と初期から幕府が終わるまで松平家が収めていたのだけど、その歴代藩主や家系図に定保という名は確認できなかった。なぜ。。
これはあくまで想像なのだが、福井方面の管轄だった松平一族の定保さんに蔵屋敷の担当をしてもらってたとかなのだろうか。
ちなみに西信町は現在の北区中之島にあたる。

販売からはじまる桜井漆器

そんなこんなで今治藩とは別便で大阪へ年貢を納めに行かなくてはいけない天領桜井。
めっちゃがんばって重たい年貢米を船で運んで来たものの空っぽの船でただ帰るだけでは勿体なさすぎる。ということで、何か地元で高く売れそうなものは無いか…?と目をつけたのが、当時大阪でいい感じに売れていた紀州漆器の黒江塗である。

紀州漆器は和歌山県海南市にある黒江地区を中心に作られており、黒江塗(くろえぬり)とも表される。
始まりは室町時代とされ、根来寺(ねごろでら)という寺で僧侶達が自ら寺用の漆器を作ったのが起源の一つとされている。特徴はシンプルかつ丈夫な日常使いの実用品である。

こりゃ売れるぞ…!と踏んだ桜井の商人たちは買い込んだ漆器を船に積み込み、海を渡って帰っていったのである。
持ち帰った漆器は、寺社や伝教信者などから評判がとてもよかったそうだ。(とはいっても漆器は当時高価なものだったため、庶民がぱっと買えるものではなかったらしい。)
そして売れるやいなや、黒江の業者と直取りを始めたのである。

春は唐津、秋は漆器

当時九州方面とはすでに商取引が行われており、唐津、伊万里などの陶器の買い付けに行っていたそうだ。
ちなみにこの取引の痕跡が桜井漆器の産地に隣接する綱敷天満宮にある。
神殿前に肥前灯籠という立派な灯籠があるのだが、寛永5年(1852年)に行われた綱敷天満宮の950年祭(!?)の際に、伊万里の陶器仲間より寄進されたものだそうだ。

そうして仕入れた陶器を春に大阪へ売りに行き、その際仕入れた漆器を九州へ売りに行くという流れが徐々にできあがっていったそうだ。

こうしたやりとりが進むにつれ、次第に膳や椀などの漆器のウエイトが増えていき、漆器のみの行商人となり、ついに漆器行商船は“椀船(わんぶね)”とまで呼ばれるようになった。
最盛期(大正中期)には400人を超える行商人がいたとされ、行く先々では“椀屋さん”と呼ばれ親しまれていたそうだ。

THE 商人根性

また聞いた話では、最盛期の桜井漆器はかなり潤っていたそうだ。
今は時代の流れとともにその影は見えなくなってしまったが、何も無い貧しい農村がアイディアとコミュニケーションを駆使して一大産業へと上り詰めたのは、とてつもないことである。
それだけ生きるのに必死な時代だったのかもしれない。
まさに商人根性を感じるエピソードだ。

今治は商人の街
とよく言われる。(地元だからよく聞いてただけかも知れないが)
昔は「ふーん、そうなんだ」くらいに思っていたのだが、なんとその由来は桜井の椀船行商人のことだったのである。

「伊予商人の歩いた後は、草木も生えない」
などと言われていたほど、その商才は全国的に認められ、活躍していたそうだ。
伊予とは愛媛県の旧国名である。何にもないと思っていた地元桜井の昔の人々が愛媛を背負った名で呼ばれていたなんて、胸の熱くなる話ではないか。むしろなんで今まで知らなかったのだろう…


桜井漆器の歴史に触れることで、今まで知らなかったことが次々と出てきたわけだが、地元桜井への解像度が少し増したのと同時に、わからないことや知りたいことも見えてきた。

いや、桜井漆器の歴史、まだこれ前編なのよ。

前編は「販売からの始まり」についてだったが、後編は「製造と独自の販売術」についてである。どちらかというと桜井漆器は後編の内容を引き合いに語られることが多いかも知れない。

後編もよろしく。

【書いた人】まるやま / WAYAの「つくるひと」

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