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【桜井漆器#4】荒くれセールスマンたちの絆が生んだ独自商法、月賦販売の誕生

前編【桜井漆器#3】では桜井が漆器の販売を始めるに至るまでを書いたが、今回後編では「製造の開始と月賦販売の始まり」について記していく。



こんな売れるなら漆器つくろっか

大阪まで買い付けに行っていた漆器は主に九州方面でとても良く売れていたことから、「これなら自分たちで作った方がもっと儲かるのでは…?」と桜井の商人たちは考えた。
問屋だった桜井が、メーカー業も始めたのだ。
このような動きは現代でもよく見られる。
こうして時は天保年間、1830年頃に漆器の製造を開始し、産業としての桜井漆器が誕生した。

足りないならば職人さえも仕入れちゃう

地元での生産が始まった桜井漆器。しかしいざ始めようとしても技術やノウハウを他の漆器から学ぶにも時間がかかる。
そこで漆器の仕入れに紀州や大阪へ出向いた伊予商人たちは、現地でヘッドハンティングした紀州の黒江塗や加賀の輪島塗の職人たちを桜井に連れて帰り、生産を任せながらその技術を取り入れていった。なんとも効率的なやり方である。
そのためか、桜井漆器には各地方のいろんな技術が取り入れられているとのこと。ノンポリが生んだ独自の生産スタイルが確立されていったのだ。

桜井漆器の独自技術“櫛指方”

そんな桜井漆器、全く無特徴かというとそんなことはなく、ちゃんとオリジナルの技術も開発されていた。
その技法は“櫛指法(くしざしほう)”と呼ばれ、重箱の角の部分を櫛のように凸凹に噛み合わせて接合することで、最も壊れやすい四隅の接着部分の強度を格段に増すことができたのだ。
この技法の開発により、堅牢で安価な桜井漆器の名は全国に広まったそうだ。
現在は接着用の樹脂の発達などによりこの技術は使われなくなってしまったのだが、後発で何もないところから始まった桜井漆器が独自の技法まで開発するなんて、今でいう新興ベンチャーのようではないか。

伊予商人の発明、“月賦販売”とは

こうして販売と製造を充実させていく桜井漆器だが、桜井漆器を語る上で必須とも呼ばれる項目にまだ触れていないのだ。
それは“月賦販売(げっぷはんばい)”である。
月賦販売とは、商品と引き換えに代金の一部を受け取り、残額は以後毎月分割払いする販売方式である。現在のクレジット商法の元となったとされる。(クレジットカードのシステムはアメリカで1950年代に独自に誕生。)
当時、高まる需要に応え当時高級品だった漆器をより多くの人に売るためこのような販売方法が生まれたそうだ。

この月賦販売はその後漆器販売のみにとどまらず、ノウハウを活用して様々な商売に活用されていく。そして各地に集金業務用の店舗が設置されるようになり、月賦百貨店へと発展していくのである。
月賦百貨店の創始は丸善田坂商店とされており、大正期には丸善でノウハウを学んだものたちが都市部へ進出し、常設店舗を構えるようになる。扱う品目は家具・洋服など多角化していき、戦後には家電なども扱うようになる。
最盛期の1960年頃には、全国に700店舗以上の月賦販売店があったというから驚きだ。
「伊予商人ってすごいなぁ…」とならざるおえない。

しかしながら盛者必衰虚しく、銀行などによって現代的な消費者信用制度(個人金融やクレジットカードなど)の確立により、瞬く間にほとんどの月賦百貨店は廃業していったという。

現在でも名を残しているのは、OIOIでお馴染みの丸井である。
なんとあのマルイ、もとは月賦百貨店だったのだ。
創業者の青井忠治氏は富山県の出身で、伊予商人の営む月賦百貨店でノウハウを学び丸井を立ち上げた。1960年代には月賦販売から「クレジット」の名を全面に打ち出し、その後も時代に合わせて経営革新を続けていくことで今日の大手企業へと成長していった。

あのマルイのルーツが桜井にあったなんて、、
中学生のころはOIOIの読み方さえわからない、なんか東京の若者の集う建物くらいに思っていた遠い存在だったマルイが、なんだか急に身近に感じられる。

月賦販売は荒くれ同士故に成り立った!?

さて、漆器の月賦販売に話を戻すとする。
九州方面で盛んに取引されていた桜井漆器。その需要先は主に農村などであったとされる。九州方面は炭鉱業も盛んだったためその界隈の人たちとも取引をしていたかもしれないとのこと。
桜井漆器は比較的安価であったとはいえ、当時としては高級品に変わりはない。現金一括で払える人ばかりでないが漆器は売りたい。しかも需要がある。
そうした状況のなかで月賦販売は浸透していった。

月原漆器店の月原さんは言う。
「月賦販売は商品を先に渡し、頭金をもらい、残金は次回の訪問時に回収するんですが一つ問題がありまして。商品を先に渡してしまうもんだから、相手が逃げたり力づくで払わないなどなると困っちゃうんですよ。相手は九州の人たち、肉体労働の人も多く気性も荒かったことでしょう。」

…確かに、なんかそんな気がする。

「ただね、桜井のこの地域は気性の荒い人が多い感じがあるでしょ。月賦販売はちゃんと取り立てないと成り立たない。そのためには伊予商人もある程度威圧しなきゃいけなかったんじゃないかな。
不思議な話、気性の荒い人たち同士、なんか気が合ったんですかね。取引はうまくいき、関係もとても良好だったそうです。」

なるほど、目には目を。荒くれには荒くれを。
なんか色んな方面に怒られそうだが、確かに桜井漆器エリアの浜付近は比較的気性が荒めの印象だった。(少しね)
漁師町だからざっくばらんな人が多いんかな?くらいに思っていたのだが、まさかこんな昔から続いていたとは。
その気性のおかげで月賦販売がうまくいき、桜井漆器の発展に繋がったのだから面白いものである。


さて、前後編に渡って桜井漆器の歴史を綴ったわけだが、今回調べてみて改めて知らなかったことの多さに驚いた。
これまでは江戸〜大正にかけての話だったが、月原漆器店の月原さんに伺った近代の話も今後追って記していく。

次回は漆器のそのものの製法をまとめ、漆器の理解をより深めていこうと思う。いやはや、アカデミックである。

【書いた人】まるやま / WAYAの「つくる人」

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