相手によって言い方が変わる(のはダメなのか?!)
言葉は、ものを「獲得する」ためのものとして始まる。
言葉は「現われよ」と命令し、目の前に存在しない何かを出現させる。井筒俊彦氏の議論にそんな一節があった。それについてはこちらのnoteに書いている。
言葉を発すると、ものを獲得できる。
それはごく小さな子どもの頃の体験であるという。
生まれてすぐから子どもは言葉「以前」の声を発する。
すると親や身近な大人は、子どもが欲しがっているであろうものを推察し、与える。
何か声を発すると、何かが獲得できる。
この経験が繰り返される中で、特定の音のパターンと、特定のものとが対応していることに気づく。
保育園で喋らない?
二歳の長男。保育園ではまだあまり言葉をしゃべらないという。
同じ年齢の子どもたちは、もう結構いろいろ喋っている。あれをしたこれをした、あれが好きこれが好き、などなど。お迎えのついでにほんの一瞬顔を合わせるだけの「おともだちのお父さん」である私にも気軽に言葉を投げかけてくれる。
それに比べると我が家の長男はほとんどしゃべらない。他のクラスの先生や、友達の親などから声をかけられても、じっと聞いて、何か考える表情になったかと思うと、返事をすることなく、フッとどこかに行ってしまう。
そんな長男であるが、家に帰れば饒舌になる。
「バス 乗った」
「電車、事故、貸した、泣いた(保育園で友達と電車のおもちゃを取り合いになり、電車は線路から外れ、自分は泣いてしまった)」
「パンほしい。葉っぱ(野菜)いらない。」
大きな声で歌まで唄っている。カエルの歌、キラキラ星、など、自分で歌詞を変えてお楽しみである。
これだけいろいろしゃべることはできるのに、なぜ保育園で黙って居るのか?
ちなみに長男は保育園に行くことをとても気に入っている。ともだちと楽しそうに走り回っている。何か「不満」があって黙っているというわけではなさそうだ。
言葉は状況に埋め込まれている
この子の言葉を理解する鍵は、「言葉は状況に埋め込まれている」という考え方である。
この子にとって言葉は、状況とは独立して存在するものではない。言葉は個々の状況と無関係にトップダウン的にあらゆる状況に貼り付けられるようなものではない。
言葉を、状況と別個に存在し、あらゆる状況を超えて、それをいつも同じように自在に名付けられるラベルのようなものだ、という考える理論もあるが、この子を観ている限り、その言葉はあくまでも「状況」に含まれている。
相手はだれか?他者と一緒という状況
状況を構成する最重要の要素は「言葉に対して言葉で応答してくれる他の人」であるらしい。
家でも、外出先でも、保育園でも、親が一緒にいれば、不意に饒舌になる。親といっても、父親と母親、あるいはその両方が揃っている時。それぞれのパターンで微妙に言葉の使い方が変わる。またよく観ていると、保育園でも特定の先生には時々話しかけている。
言葉は事物を獲得するためもの、という最初の話に戻ると、この子の言葉の姿がよく分かる。
どういう状況で、誰に対して、どういう言葉を発すると、どういう事物あるいは相手の行動を獲得できるのか?
言葉はこのような、状況と相手と、そして自分の必要の組み合わせとセットになっている。
ある状況(いつどこでだれとなにと)で、いま自分が何をしたいか?
それに応じて言葉を発するかどうか、どう言葉を発するかが決まる。
これは言葉の意味ということを考える上でもとてもおもしろい事例である。
相手によって言い方が変わる?
相手によって言い方を変える。
思い起こすと、私が子供の時分には、それはとても悪いことであると言われ続けた。
学校でも家庭でも、相手の顔色をみて、言い方を変えてみるなど、姑息で卑怯だと言うわけである。
逆に、
「相手構わず、同じように同じことをいう。」
「状況構わず、同じうように同じことを言う。」
それこそが言葉の「正しい」使い方であると言わんばかりに。
しかし考えてみれば、この発想。言葉を普遍的で客観的な、独立した「もの」のように想定するという大きな間違いの上に成り立っている。
そうして、相手の表情を見ることなく、辞書を読み上げているように言葉を発する。それでいて「こちらは唯一の正しい意味で喋っているのだから、当然聞いているほうもそれを理解すべき」といわんばかりに、相手に無茶な要求をし、叶えられない期待をしてしまう。
大人になる過程で、この客観的な言葉への誤認を引き剥がすのに、ずいぶんと苦労した。
同じ音のパターン、同じインクのシミのパターンとしての「同じ」言葉であっても、その「意味」は、発せられる状況、誰が誰に言うか、によって変わってくる。場合によっては同じ言葉が全く逆の意味になることさえある。
この多義性、両義性を出発点に、相手によって、状況によって、試行錯誤、言葉の組み合わせ方を変えてみること。そして相手の反応を観察しながら、共有できる言い方を模索し合うこと。それこそが、生きた状況の中で、ひとりひとりの異なる生きた誰かと言葉を交わし、同じ瞬間を生きるということである。
と、2歳の子供を観ていると、あたりまえのようにそれをやっているではないか。
おしまい